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病院

病院

病院(びょういん、)は、疾病や疾患を抱えた人(病人、患者)に対し医療を提供したり、病人を収容する施設(の中でも一定の規模のもの)のこと。

病院の設立者は公的セクターが多いが、また保健組織(営利または非営利団体)、保険会社、慈善団体などがある。病院は歴史的に、その多くが宗教系修道会や慈善家によって設立・運営されてきた。
「hospital」という言葉はラテン語 hospes(客)に由来し、「傷病者や病人の収容施設」という意味合いの言葉である(hotel などと語源は同じ)。そのためこの語はかつて老人ホーム、養老院、孤児院の意味でも使用されていた。
漢語「病院」は明末のイエズス会士ジュリオ・アレーニによる『職方外紀』(1623年)にはじめて現れる。この書物が江戸時代に輸入され、蘭学者によって使用された。戊辰戦争の頃に使用された「病院」という文字が書かれた旗が順天堂大学に保管されている。
古代ギリシアのアスクレーピオスの神殿が病院の一種として機能していたともいわれる。また、法顕『仏国記』によれば、西暦400年ごろのインドでは「福徳医薬舎」が建てられて、病人や不具者・孤児・貧窮した者などを集め、治療したり食事を与えたりしていた。
イスラム教世界では707年にシリアのダマスカスに病院が作られたのがはじめである。ハールーン・アッ=ラシードのもとでバグダードに病院が作られた。
西洋のキリスト教世界では修道女・修道士が神に仕えるために病人を集めて日常生活上の世話をした。これは看護活動の原点でもある。宗教改革以降、プロテスタントの地では宗教から病院が切り離されるようになった。18世紀以降、病院は貧民救済から離れて、もっぱら病気やけがの治療のために使われるようになり、専門化していった。19世紀のフローレンス・ナイチンゲールは看護にも職業的訓練が必要なことを明らかにした。
日本で最初の病院は、1557年に医師でもあったポルトガルの宣教師ルイス・デ・アルメイダによって、現在の大分県大分市顕徳町2丁目にあったデウス堂の隣地に開設された病院であると言われ、外科、内科、ハンセン病科を備え、日本初の入院施設も備えていた。これが西洋医学が初めて導入された場所とも言われている。
戦時国際法では、病院への攻撃は禁止され、戦争犯罪である。
米国で最も優れた病院には、USニューズ&ワールド・レポート誌ではメイヨー・クリニックが選ばれた(2014-2015年)。民間企業ではホスピタルコーポレーション・オブ・アメリカはニューヨーク証券取引所に上場している。
タイでは、バムルンラート病院などが上場され、同国の株価指数であるSET指数の構成銘柄に採用されている。
料金の支払いには、城鎮基本医療保険加入者であれば医療保険カードが使用できる。
IHHヘルスケアがマレーシア証券取引所およびシンガポール証券取引所に上場しており、同社は多国間展開するアジア最大の病院経営者である。
医療法においての「病院」とは医療機関の機能別区分のうちの一つ。日本では医療法上、一定規模以上の医療機関を病院といい、小規模のものは診療所として病院との呼称を使えないことになっている。ただし、医療を施す場所との意味合いから、病院・診療所を問わず医院と称することもある。病院は、傷病者が、科学的でかつ適正な診療を受けることができる便宜を与えることを主たる目的として組織され、かつ、運営されるものでなければならない(医療法第1条の5後段)とされる。
「病院」とは、医師又は歯科医師が公衆又は特定多数人のため医業又は歯科医業を行う場所と定義され、病床数20床以上の入院施設(病棟)を持つものを指す(医療法第1条の5前段)。無床もしくは19床以下のものは診療所(入院施設を持つ場合は有床診療所)となる。
近年、日本では医療の普及の影響もあり、病院で一生の最期を終える人が増えてきている。また、人間が生まれる(出産)場もほとんどの場合病院・産院である。
日本において病院の配置は都道府県の医療計画に基づいて行われ、医療法に基づく都道府県知事の許可を必要とする。ベッド数が過剰な場合は開設許可を与えないことも可能であり、需要調整がなされている。
病院の管理者(理事長など)は原則として医師・歯科医師でなければならない(医療法第10条。但し、管理者の急死等により医師以外が認められることもある。)。
多くの病院は、医療法の非営利原則に基づき、地方公共団体、独立行政法人、事務組合や日本赤十字社など公的組織以外には、医療法人(他には各大学医学部の付属病院(大学病院)、社会福祉法人、宗教法人、協同組合など)を中心とした非営利組織(公益法人)にしか設立が認められず、会社組織は例外的に福利厚生を目的とした一部企業(ほとんどは大手企業の「健康保険組合」が運営している)や国の特殊法人が管轄した病院を引き継いだJR、NTT、日本郵政などが設立した病院(設立企業関係者以外の一般の部外者も診察してもらえることが前提)が存在する。ただし例外として、歴史的な経緯(戦前から営まれているなど)から株式会社として運営されている病院がある(麻生飯塚病院や大阪回生病院など)。これは医療機関運営に株式会社が参入しているケースとはいえないので「例外」である。
なお、「個人病院」という表記が時々見受けられるが、純粋な「個人病院」は下記の種類の中の「個人」となっている非法人立病院(個人事業主)の病院である。医療法人立病院などを「個人病院」と表記するのは異なっている。
建築基準法により、病院は第一種低層住居専用地域、第二種低層住居専用地域、工業地域、工業専用地域では設置できない(これに対し、診療所は用途地域の別に関わりなく設置が可能である)。
「病院」と称することができる施設は、医療法上の病院に限定される。また、病院の名称には、公立・独立行政法人立(国立病院機構など)を除き、一般に「病院」の文言を含むこととされている(行政指導)。
(厚生労働省大臣官房統計情報部による医療施設調査の開設者分類による)
現在の日本では国民皆保険制度を採用しており、病院で診察を受けても全治療費における自己負担率は最大でも3割である。それ故、利用者にとってはさほど金銭の負担にならないことが多い。しかし、実際は医療サービスの値段は高い(実負担額の3倍以上)ということを認識しておくべきである。
特に正常分娩は、公的医療保険の対象外であり、出産育児一時金による立て替え払いに対応している病院でなければ、退院時に分娩費用の全額を一括で支払わなければならない。また、受診時に保険証(コピー不可)の原本を所持していないと、その時点での治療費は未保険者同様原則全額支払となる。そうなった場合、その際の領収書を所定の申請書に沿えて保険者に提出することで、原則本来の自己負担分を差し引いた金額が払い戻される。
最近では負担するべき3割負担の治療費でさえ未払いするなど、社会問題となっている。このままでは公的な医療サービスの水準は崩壊の危機がある。医療法上は正当な理由がない限り受診拒否はできず、「未払いを理由とする受診拒否はできない」と通達上されている為、保険者側・病院側双方からブラックリスト対象にならないように健康を保つかお金を管理しなければならない。
2004年頃からビザ・インターナショナルのCMで、『病院での支払いも”VISA”で』というキャッチで流されたが、医療費の支払いが高騰化した現代、外来での会計は一件あたり1万円以内の金額が多数であっても、入院治療費用の支払いでは一件当たり数万円 – 百万円超と高額であるため、現金が手許にない時にクレジットカードで立て替え払い出来るという潜在的ニーズと、そのニッチな分野でのクレジットカード会社の加盟店手数料収入が大きく見込める点から、2004年から全国の国立病院機構・赤十字病院・労災病院のほとんどがクレジットカード・デビットカードでの支払いに対応した。
国の機関の場合、金銭の収納は原則として現金に限るため、クレジットカード等での支払いはできなかったが、国立病院の独立行政法人(国立病院機構)化、国立大学の国立大学法人化により会計法上の制約が外れ、その国立(大学)病院がクレジットカードの取扱いを始めたことから公立、民間の他の病院も追随することとなった。特に、病院に設置された銀行のATMが撤去されるケースが増えていることも、クレジットカード対応を加速している。
近年、治療費の支払いをATM様の機械で行う自動精算機が導入されている病院が有る(電子カルテシステム等と連動している)が、そこでカード決済を行う際はカードの暗証番号入力が必要である。
なお、以前から元々治療費が高額(自由診療主体)で、決済金額の5%から10%程度のクレジットカードの利用手数料を支払ってもかまわない人間ドック・歯科・美容整形外科などの各専門クリニック・病院では、独自にカード会社と加盟店契約をして取り扱えたが、どちらにしても2004年以降、私立病院・大学医学部付属病院を中心に普及し始めているほか、東京大学医学部附属病院とライフの提携カード「ゆーとむカード」では、外来時の診療・検査終了後に会計計算窓口に立ち寄らず・待たずにそのまま帰宅する『エクスプレス会計』というポストペイサービスを提供しており、他病院への汎用化も検討しているとプレスされている。
病院の業務は、健康上の問題を持つ人の診療が主である。患者の急性期・亜急性期・慢性期等の状態に応じて、継続的な看護もしくは観察の必要がある患者について入院加療を行う。その一方で、特に慢性期・介護療養医療施設等においては、認知症や麻痺、精神疾患などのため一般社会で生活していくことが困難な人が医学的必要性の有無にかかわらず病院に長期入院せざるを得なくなる状況があり、これらはドイツでは病院誤用(Fehlbelegung)、日本では社会的入院として知られている。
特に日本の病院は平均入院日数の長さが指摘されており、長年OECD中1位を維持している。これは健常者以外を社会に受け入れることが困難な日本の福祉体制を反映するものとなっている。とりわけ入院患者の約1/3は精神科病棟の入院者であり、こうした状況を日本医師会会長武見太郎は「精神医療は牧畜業だ」と喝破した。OECDは日本の状況を「患者を入院させたままにすることは病院収入を増やす簡単な方法である」、「日本の精神保健政策は他国に比べ『脱施設化』が遅れており、精神科病床の多さなど悪い意味で突出している」などと報告している。
医療行為とは古くから行われている伝統的な行為であるので、病院に関しても長い歴史の中では世界遺産となったものもある。メキシコのオスピシオ・カバーニャスやスペインのサン・パウ病院、トルコのディヴリーイの大モスクと病院が良い例である。
近代までは病院とはほとんど治療の場というより、感染症患者や精神病患者を隔離する、或いは貧しい患者に食事とベッドを提供すると言う役割の方が大きかった。そのため貧困層向けの病棟は常に定員オーバーであり、一つのベッドを数人が共有すると言うことも行われており、現在も途上国では同様であることが多い。
これに対し裕福な層は自宅で療養し、医師の往診を受け、メイドによる介護を受けていた。これと同等に近い環境を目指し、治癒を目的とした病院を提唱したのがフローレンス・ナイチンゲールである。彼女の提唱したナイチンゲール病棟は、二十数人程度の患者を一つの看護単位とし、限られた看護師しかいない状況でも出来るだけ手厚い看護と治療を受けられるようにしたものである。
20世紀に入ると、病院もモダニズム建築の影響を受ける。20世紀前半には、学校や拘置所・刑務所と言った施設と同じような設計思想で作られていた。すなわち採光を良くする為に細長いフロアで中廊下型が多く、病室と並ぶ形でナースステーションが存在した。
20世紀も後半に入ると、アメリカ合衆国を中心に、病院に特化した設計思想が生まれてくる。ナースステーションから各病室への距離を縮めるためにフロアの中心に置き、さらにフロアの形状も円形や三角形、多角形などとして動線が工夫された。全室を個室や2人部屋以下とするのも、一つには動線の短縮のためである。
日本でこうした設計思想が取り入れられ始めたのは1990年代からであるが、現在では大学病院や都道府県立病院などの改築の際にはほとんどこの設計思想が取り入れられている。

効果

効果

効果(こうか、)は、一般的にある特定の行為、動作、操作によって起こった、ある特定の好ましい現象をいう。

科学の実験でおこった現象や営業、宣伝展開、スポーツでのポイントの取得など、さまざまな場面で、「効果があった」という言い方がされる。
ある原因から明確な因果関係による結果として生じる現象を効果といい、諸分野において「何々効果」と命名されているものが多数ある。結果が「好ましい」かどうかは問わない。例えば温室効果など。
演劇など舞台や劇場などで、その場面にふさわしい状況を人為的につくることをいう。
柔道における「効果」は、投げ技等において「相手を制しながら速さと強さをもって片方の肩、尻、大腿部が畳につくように投げたとき」または、抑え込みにおいて「10秒以上15秒未満抑え込んだとき」に与えられていたポイント(旧国際柔道連盟試合審判規定)。
かつては、国際ルールで効果が与えられていたが、2009年1月1日より「効果」は廃止された。これにより、上記にある、「片方の肩、尻、大腿部が畳につくように投げたとき」や「抑え込み時間が15秒未満のとき」には、いずれのポイントも与えられなくなった。
空道においては、
これらの場合効果のポイントが与えられる。

日本

日本

日本国(にほんこく、にっぽんこく)、または日本(にほん、にっぽん)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国。

議会制民主主義国家である。首都は東京都。
「日本」という漢字による国号の表記は、日本列島が中国大陸から見て東の果て、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来するのではないかとされる。近代の二つの憲法の表題は、「日本国憲法」および「大日本帝国憲法」であるが、国号を「日本国」または「日本」と直接かつ明確に規定した法令は存在しない。ただし、日本工業規格 (Japanese Industrial Standard) では日本国、英語表記をJapanと規定。更に、国際規格 (ISO) では3文字略号をJPN、2文字略号をJPと規定している。また、日本国外務省から発給される旅券の表紙には「日本国」の表記と十六一重表菊 を提示している。法令で日本を指し示す表記には統一されておらず日本、日本国、本邦、わが国、などが混在している。
「にっぽん」、「にほん」と読まれる。どちらも多く用いられているため、日本政府は正式な読み方をどちらか一方には定めておらず、どちらの読みでも良いとしている。
7世紀の後半の国際関係から生じた「日本」国号は、当時の国際的な読み(音読)で「ニッポン」(呉音)ないし「ジッポン」(漢音)と読まれたものと推測される。いつ「ニホン」の読みが始まったか定かでない。仮名表記では「にほん」と表記された。平安時代には「ひのもと」とも和訓されるようになった。
室町時代の謡曲・狂言は、中国人に「ニッポン」と読ませ、日本人に「ニホン」と読ませている。安土桃山時代にポルトガル人が編纂した『日葡辞書』や『日本小文典』等には、「ニッポン」「ニホン」「ジッポン」の読みが見られ、その用例から判断すると、改まった場面・強調したい場合に「ニッポン」が使われ、日常の場面で「ニホン」が使われていた。このことから小池清治は、中世の日本人が中国語的な語感のある「ジッポン」を使用したのは、中国人・西洋人など対外的な場面に限定されていて、日常だと「ニッポン」「ニホン」が用いられていたのでは、と推測している。なお、現在に伝わっていない「ジッポン」音については、その他の言語も参照。
近代以降も「ニッポン」「ニホン」両方使用される中、1934年には文部省臨時国語調査会が「にっぽん」に統一して外国語表記もJapanを廃してNipponを使用するという案を示したこともあったが、不完全に終わった。同年、日本放送協会(NHK)は「放送上、国号としては『にっぽん』を第一の読み方とし、『にほん』を第二の読み方とする」旨の決定をした。
その後現在も両方使用されており、2009年6月30日に政府は、「『にっぽん』『にほん』という読み方については、いずれも広く通用しており、どちらか一方に統一する必要はない」とする答弁書を閣議決定している。
現在、通商や交流の点で自国外と関連のある紙幣、切手などには「NIPPON」と描かれ(紙幣発券者も「にっぽんぎんこう」である)ているほか、NHK、日本テレビ、ニッポン放送、日本武道館、全日本空輸、近畿日本鉄道、西日本鉄道、日本体育大学、日本郵便、NEXCO東日本・NEXCO中日本・NEXCO西日本、日本電気、日本電信電話、日本郵船、日本通運、NTT東日本・NTT西日本などで「NIPPON」(にっぽん)表記を用いる一方、「NIHON」(にほん)表記を用いる例は、日本大学、日本航空、日本経済新聞、日本たばこ産業、JR東日本・JR西日本、日本ユニシス、日本相撲協会、日本交通、日本オリンピック委員会、NTT東日本、などがある。日本経済新聞が2016年に行った調査によると、社名に「日本」が含まれる上場企業の読み方は、「にほん」が60%、「にっぽん」が40%であり、「にっぽん」と読ませる企業の比率が増加傾向にあった。テレビ番組名では「にっぽん」が使われることが多くなってきている。なお、日本国憲法の読みについて、内閣法制局は、読み方について特に規定がなく、どちらでもよいとしている。憲法制定の際、読みについての議論で担当の金森徳次郎国務大臣は「ニホン、ニッポン両様の読み方がともに使われることは、通念として認められている」と述べており、どちらかにはされなかった。
日本のオリンピック選手団は入場行進時のプラカード表記を英語表記の『JAPAN』としているが、1912年の初参加となったストックホルムオリンピックの選手団のみ『NIPPON』の表記を使っていた。
東京と大阪にある橋の名称と地名になっている日本橋は、東京(及び旧江戸)の日本橋は”にほんばし”、大阪の日本橋は”にっぽんばし”とそれぞれ読む。
日本の政党名における読みは、次のとおり(国会に複数の議席を有したことのある政党)。
今上天皇は、一貫して「にほん」と読んでいる。
古くから多様である。
日本では、大和政権が統一以降に自国を「ヤマト」と称していたようであるが、古くから中国や朝鮮は日本を「倭」と呼んできた。石上神宮の七支刀の銘や、中国の歴史書(『前漢書』『三国志』『後漢書』『宋書』『隋書』など)や、高句麗の広開土王の碑文も、すべて倭、倭国、倭人、倭王、倭賊などと記している。そこで大和の代表者も、外交時には(5世紀の「倭の五王」のように)国書に「倭国王」と記すようになった。
しかし中国との国交が約120年に渡って中絶した後、7世紀初期に再開された時には、『日本書紀』では「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」、『隋書』には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」とする国書を日本側が渡した記述があり、従来のように倭と称する事を避けている。中国側では『旧唐書』の「東夷伝」に初めて日本の名称が登場し、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日の辺に在るを以ての故に、日本を以て名と為す」「或いは曰く、倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為す」「或いは曰く、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併す」のように、倭が名称を日本に変えた理由を説明している。また、『新唐書』においては「国日出ずる所に近し、以に名をなす」とあり、隋書の「日出処天子」と共通している。
この7世紀には、遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが、いつから「倭」に変えて「日本」を国号と変えたのかは明らかでない。使者の毎回の交渉について詳しく記述している『日本書紀』も、8世紀に国号としての日本が確立した後の書物であり、原資料にあった可能性のある「倭」の字を、国号に関する限りすべて「日本」と改めている。それ以外の文献では、733年(天平5年)に書かれた『海外国記』の逸文で、664年(天智3年)に太宰府へ来た唐の使者に「日本鎮西筑紫大将軍牒」とある書を与えたというが、真偽は不明である。結局確かなのは『続日本紀』における記述であり、702年(大宝2年)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使は、唐側が「大倭国」の使者として扱ったのに対し、「日本国使」と主張したという。『旧唐書』の「東夷伝」の記事も、この日本側の説明に基づいているようである。
『日本書紀』では日本の初代天皇の神武天皇は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)と言われ、饒速日命は「虚空見つ日本の国」と日本を呼んだ。
『新羅本紀』では「670年、倭国が国号を日本と改めた」とされている。「倭」と「日本」の関係について、『日本書紀』によれば、「ヤマト」の勢力が中心に倭を統一した古代の日本では、漢字の流入と共に「倭」を借字として「ヤマト」と読むようになり、やがて、その「ヤマト」に当てる漢字を「倭」から「日本」に変更し、当初はこれを「ヤマト」と読んだとする。
「日本」という国号の表記が定着した時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。斉明天皇は658年臣の阿倍比羅夫に、外国である粛慎(樺太)征伐を命じている。663年の白村江の戦いでの倭国軍の敗戦により、唐は使者を倭国に遣わし、唐と倭国の戦後処理を行っていく過程で、倭国側には唐との対等関係を目指した律令国家に変革していく必要性が生じた。これらの情勢を契機として、668年には天智天皇が日本で最初の律令である近江朝廷之令(近江令)を制定した。そして672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進め、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令の制定へと至る過程において国号の表記としての「日本」は誕生したと考えられる。
具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただし、それを推定する見解は2説に絞られる。
(1) 第一説は、天武天皇の治世(672年 – 686年)に成立したとする説である。これは、この治世に「天皇」の号および表記が成立したと同時期に「日本」という表記も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」表記と「日本」表記と両方が定められたと推測する。
(2) もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」表記が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」表記が定められたとしている。ただし、『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔には「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』 にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とする。国号の変更理由については「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」という日本国側からの説明を記載するものの、倭国と日本国との関係については、単なる国号の変更ではない可能性について言及している。すなわち、『旧唐書』は「小国だった日本が倭国を併合した」とし、『新唐書』は、日本の使者は「倭が国号を日本に変えたとか、倭が日本を併合し国号を奪った」と言っているが疑わしいとしており、同書でも、日本は、隋の開皇末(600年頃)に初めて中国と通じた国であり、古くから交流のあった倭国とは別と捉えられている。また、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となったことなどが記載されている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に初めて「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。
これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である。但し2011年7月、祢軍という名の百済人武将の墓誌に「日本」の文字が見つかったという論文が中国で発表された。墓誌は678年制作と考えられており、もしこれが事実であるならば日本という国号の成立は従来説から、さらに遡ることになる。
『旧唐書』・『新唐書』等を理由として「日本」国号は、日本列島を東方に見るという中国大陸からの視点に立った呼称であるとする説がある。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行われた『日本書紀』の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている。
『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎないとする指摘もある。
通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。しかし、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように7世紀後期であり、それまでは「倭国」と呼び記されていた。この倭国がどのような地理的範囲あるいは系統的範囲をもつ集団であるかについては史料に明確にされておらず、多くの学術上の仮説が提出されている。倭国と日本国との関係は諸説あり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている。
時代の区分は、考古学上のものと歴史学上のものとがある。
(1) 考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、歴史時代、とするのが一般的である。
一方、(2) 歴史学上は、古代(古墳時代から・飛鳥時代・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治維新から1945年8月14日まで)および現代(1945年8月15日以降)の五分法が通説である。
日本列島における人類の歴史は、次第に人が住み始めた約10万年前以前ないし約3.5万年前に始まったとされる。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約3万年前には朝鮮半島と海峡で隔たり、約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると6千年前頃まで100m以上の海進が進んだ(縄文海進)。この時期の住民が縄文人である。この後も列島と大陸との間に小規模ながらも広範囲に通交・交流が行われ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった。だが、東アジアの最東方に所在する大きな島国、という地理的条件により、黄河・長江流域の文明を中心に早期から発展していた中国と比べると、文明の発達度という意味では後進地域となっていた。
紀元前8世紀頃以降、中国南部から稲作を中心とする文化様式を持つ弥生人が流入すると、各地に「クニ」と呼ばれる地域的政治集団が徐々に形成される。これらの地域的政治集団により、朝鮮半島南部から南西諸島までの範囲で海上交易で結びついた緩やかな倭人の文化圏が構成されていった。こうした文化圏の中で、勾玉などが紀元前6世紀以降日本から朝鮮半島へ伝搬したほか、紀元前2世紀頃に青銅器および鉄器の製造法が日本へ伝わった。1世紀・2世紀前後に各クニが抗争を繰り返し、各地に地域的連合国家を形成した。中でも北九州から本州にかけて存在していた国家群から、最も有力であったヤマトを盟主として統一王権(ヤマト王権)が形成され、これが王朝に発展したとする説が有力である。
朝鮮半島における覇権争いがヤマト王権の国家体制を変化させた。それまで、ヤマト王権は、同じ文化圏に属していたツングース系中国人の国家である百済や新羅に対して、度重なる出兵を行い任那に日本領を築くなど、朝鮮半島に影響力を持っていたが、663年、百済復興のために援軍を送った白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に敗れて半島への影響力を後退させる。その後間もなくヤマト王権は「日本」国号と「天皇」称号を設定して、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの自立を明確にした。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれた。日本は7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。
日本は、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、8世紀には渤海を朝貢国とした。武家政権成立後も、13世紀の元寇、16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。
成立当時の倭の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が平安時代後期に(延久蝦夷合戦)領域に組み込まれ、倭人、隼人、蝦夷人が日本人となった。特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。
9世紀から10世紀にかけて、地方豪族や有力農民は、勢力の維持・拡大を図り、武装するようになった。彼らはしばしば各地で紛争を起こすようになり、政府は制圧のために中下級の公家を押領使や追捕使に任じて、各地に派遣したが、中には在庁官人となってそのまま定着するものも現れるようになった。これが武士の起こりである。武士は家子や郎党を率いて戦を繰り返したが、やがて東日本を中心に、連合体である武士団へと成長した。中でも中央貴族の系譜を引く桓武平氏と清和源氏は、軍事貴族である武家となって、武士を二分する勢力に成長し、やがて政権を巡って対立することとなる。
また、中央政治においては11世紀に藤原北家が皇族の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。白河上皇が治天の君として実権を握って以降は、藤原北家と直接の血縁を持たない天皇が生前譲位し、太上天皇となって、政を取り仕切る院政がしばしば見られるようになった。
10世紀から12世紀にかけて、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に武士の清和源氏や北条氏が実権を掌握する鎌倉幕府が王朝・貴族勢力と拮抗しながら国内を統治する中世国家へと移行した(荘園公領制・職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、「日本」や「日本人」の意識が強く意識されるようになったことの表れと考えられる。特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている。1333年に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇は古代の天皇親政に回帰する建武の新政を行ったがほどなく失敗し、1336年に成立した足利氏の室町幕府がその後の南北朝時代の騒乱を抑えて中世武家政権の支配を継続した。この室町時代までには、安東氏の活動を通じて「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ(道南十二館)。また、15世紀には足利義満による日明貿易が行われ、形式的には足利将軍が「日本国王」として中国の明朝から冊封を受けることになったが、その後の日中関係ではこの関係は定着しなかった。
14世紀から15世紀までの時期には社会の中世的な分権化が一層進展したが、応仁の乱による室町幕府の衰退を決定機として15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に豊臣秀吉によって日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太・カムチャッカを含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀にシャクシャインの戦いやロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島・硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩藩の島津氏は琉球王国に侵攻して、かつて北条氏の得宗領であり、鎌倉幕府滅亡後島津氏の支配下に入った千竈氏の采配地であった奄美群島を直轄地とし、沖縄諸島および先島諸島(宮古列島および八重山列島)の琉球王府の支配地から米・砂糖を上納させた が、朝貢貿易は続けさせたため、その後も琉球王国は、日本・明朝(後に清朝)両属の状態に置かれた。
一方、豊臣秀吉が李氏朝鮮に侵攻した文禄・慶長の役の失敗後、1603年に徳川家康が開いた江戸幕府は薩摩を通じた琉球侵攻以外はおおむね消極的な外交政策をとり、後に「鎖国」とも称される海禁政策によって外国文物の流入が強く制限された。18世紀末以降、江戸幕府は千島列島などでロシア勢力と接触し、北方での防衛強化が課題となったが、ロシアとの正式な外交条約や国境画定は「開国」後まで行われなかった。幕藩体制の確立は日本国内の安定化をもたらし、緩やかな経済成長の継続は大都市の発展や商業資本の蓄積として近代化の基盤の一つになった。一方、17世紀以降に発展した国学は日本の伝統宗教である神道の復権をもたらし、その後の日本に大きな思想的影響を与えた。
19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識がさらに強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。大航海時代以降、アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、後の国民国家意識にそのまま繋がる民族・国民意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設がスムーズに行われる基礎となった。
1853年に起きたアメリカ合衆国のマシュー・ペリーによる黒船来航以来、江戸幕府は「開国」政策に転換したが、不平等条約による経済危機や尊王攘夷による討幕運動に抗しきれず、1867年(慶応3年)に大政奉還を行って自ら幕を下ろした。1868年以降、明治天皇を戴きながら長州藩や薩摩藩出身の中下級武士が実権を掌握した新政府の元で明治維新が遂行され、近代化・欧米化路線による国民国家の建設を急速に進めた。同時に近隣国と国境の確定を行い、1875年に樺太全域をロシア領とする代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、1876年に小笠原諸島の領有を宣言 し、また、琉球処分を行うとともに1885年に大東諸島、1895年に尖閣諸島を編入し、南西諸島方面の実効的な支配を確立した。ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。
自由民権運動を経て1885年に内閣制度を確立し、1889年に大日本帝国憲法を制定し、1890年に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして、アジアで初めて憲法と議会とを持つ、近代的な立憲国家となった。(正確には、オスマン帝国で1876年に制定されたミドハト憲法の方が先であるが、短期間で停止された)
19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。日露戦争の勝因として1902年イギリスと日英同盟を締結したことが大きかった。両戦争を通じ、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土に収め、関東州の租借権を獲得した。その後、1910年に韓国併合が実施された。
1914年、第一次世界大戦がヨーロッパで勃発すると、日本は日英同盟に基づいて連合国側について参戦し、ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国に対して宣戦布告した。ドイツの租借地であった青島やドイツ領ニューギニアを攻略した。青島占領の後、日本は対華21ヶ条要求を袁世凱政府に提示し、中国側の反発を招いた。日本は戦勝国として1919年のパリ講和会議に参加し人種差別撤廃案を提出した(アメリカ合衆国などが反対)。また、発足した国際連盟において常任理事国となり、旧ドイツ領の南洋群島を委任統治することとなった。一方、このパリ講和会議に際してアメリカから出された十四か条の平和原則は日本が併合した朝鮮で三・一運動を誘発した。時を同じくして大正デモクラシーが起こり、本格的な政党政治や男子普通選挙が実現した。一方で日本はロシアでの社会主義革命成功を強く警戒し、ロシア内戦に乗じたシベリア出兵では極東ロシア地域や北樺太などを一時占領した。1925年、男子普通選挙の成立と同時に制定された治安維持法は設立間もない日本共産党や社会主義勢力、後には自由主義なども広く弾圧した治安機関、特別高等警察の法的根拠となった。
1926年に昭和天皇が即位すると、翌1927年に昭和金融恐慌、1929年には世界恐慌が起き、日本経済は大きな打撃を受けた。世界恐慌以後、植民地を「持てる国」である英米仏などがブロック経済化を進めて、日独伊などの「持たざる国」を締め出す動きを強めると、日本国内では対外進出によって、状況を打破しようとする動きが強まった。対支一撃論を主張する関東軍は日本が権益を持つ満洲(中国東北部)への侵略を強め、1934年に満洲国を建国して一定の支配権を得るに至った。若槻礼次郎内閣は不拡大方針を打ち出し事態の収拾を図ったが、対外強硬的な世論を背景とする軍部の台頭を抑えきれなくなった。若槻内閣が総辞職すると、犬養毅に組閣の大命が下り、引き続き経済状況の打開と満州事変の処理にあたったが、五・一五事件で過激派海軍青年士官達によって暗殺された。これによって、憲政の常道は幕を下ろした。
1937年に盧溝橋にて日本軍と蒋介石の国民革命軍が衝突すると(盧溝橋事件)、双方の軍事行動により支那事変 (日中戦争) へと発展した。1938年には、新体制運動を主導する近衛文麿首相のもと、国家総動員法が制定され議会は有名無実化した。1940年の日独伊三国同盟締結で特にナチス・ドイツとの協力関係を強め、第二次世界大戦において枢軸国陣営への参加を明確にした日本の対外志向は、特にアメリカとイギリスを筆頭とする欧米諸国の権益と真っ向から衝突し、1941年にはイギリス領マレーおよびアメリカ自治領ハワイ準州(真珠湾)以下各地を攻撃し(南方作戦)、太平洋戦争(大東亜戦争)へ突入した。一時期は北は満洲とアリューシャン列島の一部、西は中国内陸部やビルマ、南はニューギニアの一部やソロモン諸島、東はギルバート諸島まで広がる地域まで進出・占領したものの、1942年半ば以後は敗走を重ね、最終的に1945年に沖縄戦による沖縄本島の喪失、東京大空襲をはじめとした全国各地への空襲に続いて、8月には広島・長崎に原子力爆弾による攻撃、さらには日ソ中立条約の残存期間中に対日戦を開始したソビエト連邦による対日宣戦布告を受けて帝国政府は戦争継続を断念し、ポツダム宣言を受諾して連合国に降伏した。一連の戦争で約300万人の日本人が亡くなり、国民経済の破綻と社会の混乱はその後にも深刻な影響を与えた。対外的にもアジア諸国との信頼関係回復や戦時賠償問題が戦後の深刻な問題として残された。
アメリカ・イギリスなどの連合国により、日本は史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領土・権益の総てを失った。日本の占領統治は大日本帝国憲法下における日本政府に対して連合国総司令部(GHQ/SCAP)が指令を発布し、日本政府がその指令に沿って統治するという仕組みで行われ、中央政府が有効に存続したため、中央政府不在を宣言され国家の消滅が確認されたドイツ国とは異なり、戦前と戦後とで同一の国家としての継続性が認められており、帝国憲法下で制定された法体系が戦後においても有効に存続している。連合国の指令のもと、国制の改革が進められ、大日本帝国憲法の改正手続きによって日本国憲法を制定し、1947年発効の同憲法によって「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三大原則を確立した。一方、昭和天皇の戦争責任論は法的には棚上げされ、天皇は「国民統合の象徴」と規定されて政治上の実権を失いながらその地位を維持した。
国共内戦における中国共産党の優勢が明るみになると、アメリカは対日政策を転換させ、東アジアにおける友好国とする政策を採るようになった。一方で、急激なインフレを抑制するべく実施された超均衡財政政策であるドッジ・ラインの強行により、中小企業の倒産が増大するなど深刻な不況に陥ったが、1950年に勃発した朝鮮戦争は戦場の後背地である日本で朝鮮特需を生み、経済復興への足がかりとなった。同時にレッドパージが実施されて共産党が衰退し、親米・反共主義を掲げる吉田茂首相を中心とした保守勢力が政権を独占し、戦前の政治・経済指導者も次々と公職追放から復帰した。1952年、サンフランシスコ平和条約発効によって日本は全権を回復し、資本主義陣営(西側諸国)の一角として国際社会に復帰したが、同時に成立した日米安全保障条約によって日本への在日米軍駐留は継続された。1955年に講和条約への対応を巡り分裂していた社会党の再統一が実現すると、財界の強い要望を背景として、保守合同により、自由民主党が成立した。これにより形式的に二大政党制が実現したが、その後の日本社会党の弱体化や多党化にも助けられた自由民主党優位の政治体制はその後も続いた(55年体制)。1956年、日ソ共同宣言によりソビエト連邦との国交を回復し、同年国際連合に加盟した。対ソ国交回復では1945年にソ連が占領した地域の一部返還を求めた日本側の要求が実現せず、その後も北方領土問題として両国関係の改善を阻害した。一方、1960年に岸信介首相は日米安全保障条約の改定を実現させたが、目標としていた日本国憲法の改定は果たせずに退任し、その後の自民党政権は池田勇人による所得倍増計画に象徴される「経済中心路線」を採った。一方、東京通信工業(現在のソニー)によるトランジスタラジオ対米輸出の大成功などは「安くて粗悪」というかつての日本製品の海外イメージを払拭し、外需拡大は経済成長をさらに加速させた。
戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げ(高度経済成長#日本の高度経済成長)、日本は世界有数の経済大国となった。1964年には経済協力開発機構(OECD)に加盟すると1968年には西ドイツを抜いて世界第2位の国民総生産(GNP)を計上し、アジアでは唯一の先進国として特に経済面で大きな影響を世界に与え、多くの開発途上国(発展途上国)から経済建設の先行モデルとされるようになった。1964年には東京オリンピックが開催され、1970年には日本万国博覧会が大阪府で催された。交通網の整備も急速に進み、1964年には東海道新幹線が開通、1965年に名神高速道路、1969年には東名高速道路が完成した。マイカーブームの到来により、モータリーゼーションを迎えるとともに、トヨタ自動車や日産自動車など国産自動車メーカーの品質が向上し、先進国への輸出もなされるようになったが、大幅な貿易黒字を背景としてアメリカなどとの間で貿易摩擦も生じた。第一次産業の比率が下がり第二次産業や第三次産業の比率が拡大する産業構造の高度化が見られ、国際競争力を持てない農山漁村地域やエネルギー革命に直撃された産炭地域での急速な過疎化と、大規模製造業の存在と都市化による商業活動の急拡大が連動した三大都市圏での過密化も進行した。自民党政権は全国総合開発計画や新産業都市政策で重工業拠点の全国展開を進め、経済格差の是正をめざした。農村部でも多くの工場が建設され、一方で公害問題の拡大が深刻となり、住民運動の高まりも見られた。一連の高度成長は1973年のオイルショックで終止符が打たれ、日本経済は低成長時代へと移行した。
1952年から1953年にかけてトカラ列島や奄美群島、1968年に小笠原諸島、1972年に沖縄県の施政権がそれぞれアメリカから返還された(本土復帰、沖縄返還)。アメリカ施政下の日本領土は解消されたが、ソビエト連邦との北方領土問題は解決の目処が立たず、冷戦を背景とした両国間の厳しい対立は続いた。朝鮮半島に対しては、1965年に南部の大韓民国との間に日韓基本条約が締結されて国交が回復したが、経済関係の強化とは裏腹に竹島問題は解消されなかった。また、北部の朝鮮民主主義人民共和国との間では国交回復交渉が難航し、在日韓国・朝鮮人の地位や権利の確認、さらには後に発覚した北朝鮮による日本人拉致問題などもあり、両国関係は改善しなかった。1972年の日中国交正常化で国家承認をした中華人民共和国とは1978年に日中平和友好条約を締結し、緊密な外交・経済協力関係を結んだが、日華平和条約を終了した後も実務関係を維持した中華民国(台湾)との関係や、1970年代から中国側が領土主張を始めた尖閣諸島問題は、戦争についての歴史認識問題などと合わせて日中間の懸案として残った。
21世紀に至り、少子高齢化社会に伴う人口減少、国内産業の空洞化など先進国特有の問題が生じている。自動車に続く電子工学(エレクトロニクス)産業の繁栄や、1980年代後半のバブル景気で暴騰した株価・不動産価格より過熱した日本経済は1990年代初頭のバブル崩壊で大きな痛手を受け、その後は「失われた20年」とも言われる深刻な長期不況に陥った。この間、1979年以降の改革開放路線を皮切りに中国経済は急成長を続け、2010年に日本は中国に抜かれてGNPで世界3位に落ちた。経済力を背景にした中国の対外進出は尖閣諸島問題の激化を招き、日中関係はかつての「蜜月」から大きく様変わりした。さらには情報工学(IT)分野におけるアメリカ産業の復活や韓国・台湾企業のシェア拡大、インド・ブラジルをはじめとする新興大国の政治的・経済的台頭のなか、日本は相対的に不利な立場に立たされている。1995年の阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災などの巨大地震の発生は福島第一原子力発電所事故を含む甚大な被害をもたらしており、防災・減災行政の整備は目下緊急の課題となっている。情報通信技術の急速な発展によるインターネットや携帯電話の普及に伴うユビキタス社会の到来やグローバル化の進展は、新たな需要を創出するとともに、人々の生活に大きな変化を生じさせつつある。
1993年から1994年にかけて史上初の下野を経験した後に与党へ返り咲き、2001年に首相となった小泉純一郎が進めた新自由主義政策によりその経済政策を大きく変えた自民党は2009年に民主党に政権を奪われたが、2012年に安倍晋三によって公明党との連立政権を復活させた。安倍は自らの名を冠したアベノミクスによる経済再生を掲げ、憲法改正の意欲も強く示しているが、経済格差の拡大を指摘し、集団的自衛権の容認などにも反対する国民も多く、政権の是非を巡る議論や対立が続いている。そんな中、2020年に行われる東京オリンピックを目標とした新たな技術やサービスの開発も各分野で進められている。現在、日本は列強と見なされている。
国家としての日本、日本の民族・文化は、有史以前からの長い年月を経て段階的に形成されて来ていて、明確な建国の時期を示す記録は存在しない。建国記念の日(旧紀元節)は、記紀で神武天皇が即位したとされる日(紀元前660年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)となっている。
『日本書紀』神武紀に、カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が辛酉年春正月庚辰朔(1月1日)に即位したとの記述があり、古代以来、これが日本建国の画期と広く考えられていた。明治5年11月15日(1872年12月15日)には、神武天皇即位紀元が西暦紀元前660年に始まると定められ、これを元年とする紀年法・「皇紀」が明治6年1月1日(1873年1月1日)から使用された。
公的には、この神武天皇即位紀元をもとに1957年頃から「建国記念日」制定に関する法案が9度に渡り提出されてきたが、歴史学の立場から見る神武天皇の即位は、当の記紀に何人もの人が100歳以上生きていたなどの記述もあることから神話と見られ事実でないとするのが戦後の大勢であったため、いずれも成立には至らなかった。しかし1966年(昭和41年政令第376号)により、2月11日が「建国されたという事象そのものを記念する日」として「建国記念の日」が定められた。神武天皇の存在については実在論もあり、議論は続いている。戦後、皇紀の使用は、一部を除きほとんど見られなくなった。
建国の時期として、この他に「日本」国号が定められた時期(飛鳥浄御原令ないし大宝律令の成立)や大政奉還がなされて近代国家の建設が始まった明治維新の時期などが挙げられることもある。しかし、国家としての日本は、長い歴史的な経緯を経て形成され、明確な建国の画期を見出すこと自体が困難と言え、主観的なものとなりがちである。
日本は明治以来、憲法における領土規定がなく、これは比較法学の観点では特殊なものであった。島嶼部についての領有宣言、あるいは周辺諸国との条約がおもに領土領陸の法規範であり、第二次大戦後は日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)が主要な法規範を形成している。
日本の領土は、6,852の島(本土5島+離島6,847島)からなる。
アジア・東アジアの中でも東方にあり、ユーラシアの東端近くにあたるため、東洋や極東などと呼ばれる地域に含まれる。領土の大部分が、島弧をなす日本列島である。これは本州・北海道・九州・四国などからなる。このほか、南に延びる伊豆・小笠原諸島、南西に延びる南西諸島(沖縄本島など)、および北東に位置する北方四島(北方領土)なども有する。
領土面積は約37.8万km(日本政府が領有権を主張する領域)で世界第60位である。国土の約70%が山岳地域であり、森林率は約67%である。
埋立地は古くから造成されてきたが、その多くは港湾を形成・整備することが目的であった。これによる埋立地がポートアイランド、六甲アイランド、神戸空港などである。最近では関西国際空港、横浜八景島や和歌山マリーナシティなどがあり、総面積は国土の約0.5%に相当する。また、諫早湾干拓事業と八郎潟のような大規模事業のような例もある。
周囲を太平洋、日本海、東シナ海、フィリピン海、オホーツク海などの海洋に囲まれる。本州と四国との間の海は瀬戸内海と呼ばれる。陸上の国境線が無く、ロシア、北朝鮮、台湾、韓国、中国、フィリピン、アメリカと排他的経済水域が接している。また、南方にパラオ共和国、小笠原諸島の延長線上にミクロネシア連邦があり、太平洋を挟んでアメリカ大陸がある。沖合を暖流の日本海流(黒潮)、対馬海流、寒流の千島海流(親潮)、リマン海流が流れる。
領土問題のある地域が数箇所存在する。
自然地理的区分は、地質構造を基準に、本州中部を南北に縦断する糸魚川静岡構造線を境に、南西日本と東北日本とに大別される。付近では、ユーラシアプレート、フィリピン海プレート、太平洋プレート、北アメリカプレートがせめぎ合い、環太平洋造山帯・環太平洋火山帯・環太平洋地震帯と呼ばれる帯の一環をなしている。そのため、世界全体で放出される地震エネルギーのうち1割から2割が日本の周辺に集中すると言われているほど地震が頻発し、震度1や2クラス程度の地震なら、どこかで毎日のように起きている。また、火山活動が活発なことから火山性土壌が多く、これが日本列島の自然を豊かにした面もある。温泉が多いことも火山の恵みと言える。一方で日本史では大きな噴火活動が何度も記録され、さらに近年の地質学研究によって先史時代に何度かの破局噴火が起きていたことが分かっている。
山岳は、最高峰は富士山(標高3,776m)の他、南アルプス、北アルプスなど、2500m超えの山が本州中央に集中している。他、大雪山、磐梯山、阿蘇山などが有名である。富士山はその優美な風貌から数多くの芸術作品の題材とされることで芸術面でも大きな影響を与え、日本の象徴として広く世界に知られている。
河川は、利根川・最上川などが代表的であるが、大陸河川と違い、源流から河口までの距離が大変に短いこと、海抜高低差が急なこともあり、比較的流れが速い。集中豪雨が発生すると堤防が決壊し、人家・田畑に甚大な被害を及ぼすという短所もあるが、比較的新鮮な水が取水しやすいのも特色である。
周囲を海に囲まれた島国であることから、海上交易・漁業ともに盛んな海洋国家である。内海を含む領海を入れた領域の面積は約43万kmである。
日本政府が主張する日本の排他的経済水域 (EEZ) は領土面積の約12倍である約405万km、領海とEEZを合計すると約447万kmであり世界では第6位となる。ただし日本が領有権を主張しているが韓国に不法占拠されている竹島と日本が実効支配しているが近年になって中国が領有権を主張している尖閣諸島周辺海域についてはそれぞれの国家間で重要な外交問題となっている。また、九州西方と東シナ海の領域については中国と韓国が自国の領海から延伸する大陸棚に関して国際法を無視して権利を主張している。
EEZとは別に国連海洋法条約において排他的な海底資源権益が与えられる法的な大陸棚については、2012年4月に国連大陸棚限界委員会が「四国海盆海域」、「小笠原海台海域」、「南硫黄島海域」、「沖大東海嶺南方海域」の4海域を日本の大陸棚と認定した。
都道府県(1都1道2府43県)という広域行政区画から構成される。但し、それよりも広域の地域区分(地方区分)には、揺れが見られる。都道府県の内部には、市町村や、町村をまとめた郡、特別区等がある(日本の地方公共団体一覧参照)。一部の市は、行政上、別途政令指定都市、中核市、施行時特例市に定められている。
日本国憲法上、同憲法を最高法規とし、この下に、国会が制定する法律、内閣が制定する政令や各省庁が制定する省令などの命令、地方公共団体が制定する条例など、各種の法令が定められる。この他、日本国憲法改正以前の勅令や大日本帝国憲法以前の太政官布告・太政官達は新たに制定されることはなくなったが、憲法に違反しない限り有効である。憲法上、裁判所は、全ての法令や行政行為などが憲法に適合するか否かを最終的に判断する違憲法令審査権を有し、最高裁判所を終審裁判所とする。もっとも、いわゆる司法消極主義に基づき、国会や内閣など政治部門の判断への干渉は、控えられることが多い。
日本国憲法は、現在の日本の国家形態および統治の組織・作用を規定している憲法。1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。ブルジョア憲法(資本主義憲法)の一種。
形式的には大日本帝国憲法第73条の適用により、大日本帝国憲法(通称:明治憲法)の改正の形をとって制定された。以降、2018年4月現在に至るまで、改正されたことは一度もない。硬性憲法に分類される。
日本国憲法の目的に関しては、諸説あるが、一説には第13条「個人の尊厳」の確保をその最大の目的として、以下の三つを三大原理とするものがある。
統治機構は、憲法上、立法権を国会に、司法権を裁判所に、行政権を内閣に、それぞれ分配する権力分立制(三権分立)を採る。また、内閣が国会の信任に拠って存在する議院内閣制を採用する。41条は、国会を「国権の最高機関」と定めるが、この意味につき学説は分かれ、国政の中心的位置を占める機関であることを強調する政治的美称であるとする説(政治的美称説)、「国家諸機関の権能および相互関係を解釈する際の解釈準則となる」とする説(総合調整機能説) が有力である。
長らく、戦争の放棄、戦力の不保持を定めた第9条と自衛隊の存在意義などを巡って憲法改正論議が行われている。なお、一部には、現行憲法の制定に法的瑕疵があったとして日本国憲法自体の無効を主張し、今も大日本帝国憲法が有効であるとする者もいる。
『岩波 日本史辞典』によると、「日本の君主制」は「天皇制」という。戦後に「社会科学用語として定着」したとされる。「象徴天皇制は天皇が元首でないので君主制としない説もある」とされる。
天皇は、日本国憲法第1条に規定された日本国および日本国民統合の象徴たる地位、または当該地位にある個人で現行憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。」と記載されている。大日本帝国憲法では第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬(そうらん)」するとの明記があったが、現行の日本国憲法には元首の規定はなく、そのため元首について様々な見解がある。政治学者の田中浩、憲法学者の芦部信喜、総合政策学者の長野和夫によると学説の多数は、権限を持つ内閣または内閣総理大臣を元首としている。
『日本大百科全書』は、天皇は通常の立憲君主の権限は無いとし、『法律用語辞典(第4版)』は、象徴天皇と元首天皇を別としている。また『国史大辞典』は法制上、象徴天皇は君主ではないとしている。
憲法学者の野中俊彦、中村睦男、高橋和之、高見勝利の共同著作『憲法I』(第5版)によれば、「象徴にすぎなくなった天皇は君主といえるか」という問題は、君主の定義による。民主主義の浸透後は、君主制が維持された国でも、君主権は名目化した。こうなると、君主制か共和制かの区別は無意味に等しい。天皇が君主かどうかは、憲法学上「ほとんど議論の実益のない問題」とされている。
東洋史学者岡田英弘の『倭国』および『日本史の誕生』によると、720年に完成した日本最古の史書『日本書紀』では、「高天原」より日向(宮崎県)の高千穂山に下った(天孫降臨)太陽の女神アマテラスの孫ニニギノミコトの孫の神武天皇を初代とする一つの皇統が、一貫して日本列島を統治し続けてきたとされる。『百科事典マイペディア』によると、神武天皇は「もとより史実ではない」とされている。また、皇統が分裂して、二系統が交互に皇位に就いた「両統迭立」、皇統が分裂抗争した「南北朝時代」という語が存在している。
日本は単一国家であり、その政治体制としては、おもに「象徴天皇制」(天皇を君主とすれば「立憲君主制」)・「議会民主主義制」・「議院内閣制」を採るとされる。
国会は、衆議院(下院)と参議院(上院)との二院から構成される二院制の議会(立法府)である。「国権の最高機関」であり、「国の唯一の立法機関」とされる(憲法41条)。衆議院・参議院は、いずれも全国民を代表する選挙(衆議院議員総選挙・参議院議員通常選挙)により選出された国会議員(衆議院議員・参議院議員)によって組織される。ただし、法律や予算、条約の議決、内閣総理大臣の指名、内閣不信任決議などにおいて、衆議院に参議院よりも強度な権限が付与されている(衆議院の優越)。これは、衆議院解散があり、任期も短期間であるため、より民意を反映しているため、と説明される。
行政府である内閣は、その首長たる内閣総理大臣と、その他の国務大臣から構成される合議制の機関である。内閣総理大臣は、国会議員でなければならない。国会が指名した人物は、天皇により国事行為として、儀礼的・形式的に内閣総理大臣に任命される。国務大臣は、内閣総理大臣が任命し、天皇が認証する。国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。内閣総理大臣、その他の国務大臣は、文民でなければならない。内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う一方、衆議院の実質的な解散権(解散決定権)を持つとする見解が多数説となっている(日本国憲法7条3項および69条を参照のこと)。
国会では、国会議員のみが法案提出権を保持する。国会で審議される法案の大多数は、内閣が提出する内閣提出法案(政府立法、閣法)であり、国会議員が発議する法案(議員立法)が少ない。政府提出法案は、内閣の下に設置される省庁が国会議席の多数を占める与党との調整を経て作成するため、省庁の幹部公務員(キャリア官僚)の国政に対する影響力が強い。選挙には地盤・看板(知名度)・カバン(選挙資金)の「3バン」が必要とされることから、世襲政治家が多い。1970年代以降は中曽根康弘や小泉純一郎といった例外を除いて、内閣総理大臣の任期はせいぜい2年にとどまり、2006年(平成18年)以降は1年前後の任期が続いた。
日本国憲法により、司法権は裁判所(最高裁判所及び法律に定めるところの下級裁判所)が行使する。各地方公共団体には司法府は存在せず、各地に設置される下級裁判所(高等裁判所、地方裁判所、家庭裁判所、簡易裁判所)が裁判を行う。また、日本国憲法により特別裁判所(皇室裁判所や軍法会議など)の設置は禁止されている。
司法制度として、刑事裁判に市民感覚を反映させる陪審制と参審制を折衷した制度である裁判員制度や、検察官の公訴権に民意を反映する検察審査会制度などがある。
地方自治は、基礎的な団体である市町村、広域的な団体である都道府県の二段階から成る、地方公共団体が担う。
現在、東京一極集中を緩和して地方分権を進めるため、都道府県を解消して更に広域的な道州を置く道州制の導入が検討されている(日本の道州制論議)。また、大阪都や中京都のように特別区をつくる運動もある(大都市地域特別区設置法)。
明治維新以来、信託等一部の民法の規定を除き、大陸法系(特にドイツ法及びフランス法)を基礎としているが、立憲君主制や議院内閣制に英国法、最高裁判所以下司法についての規定につき米国法の影響を強く受けているなど、憲法を中心として英米法の影響も見られる。日本国憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法を総称して六法と称する。この六法が日本の法令の基本を成し、日本の法学の基本的な研究分野と考えられてきたことによる。商法のうち、企業に関する定めの多くは、会社法に分けられた。刑法には、死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留、科料、没収が刑罰として定められている。私法分野においては一定の範囲内で慣習法は効力を有するが(法適用通則法3条)、刑法については罪刑法定主義を採り、慣習法を排除する。
死刑制度のあり方を巡っては、憲法制定の当時から議論がある(死刑存廃問題#日本での動きを参照)。ただし、判例は死刑制度を合憲としており(死刑制度合憲判決事件)、いわゆる「永山基準」を「死刑選択の許される基準」としている。2009年より、刑事事件につき重大な犯罪について裁判員制度が導入されている。
戦後、憲法によって表現の自由・報道の自由が保障され、建前上、報道に関する政府からの介入は存在しない。
記者クラブ制度によって加盟しているマスメディアのみが記者会見を独占し政府や行政機関などからの情報を受けるメリットを享受している。記者クラブが開催している会見は、加盟マスコミ以外を排除しており、報道の自由を侵害しているとフリージャーナリストや外国メディアなどからの批判が多い。テレビ放送・ラジオ放送については放送法により、中立な内容が義務付けられており、政府が発行する免許が必要である。総務省所掌の公共放送である日本放送協会(通称:NHK)の予算は、国会の承認が必要である。新聞については、再販制度の存廃など、様々な形で事実上の介入が行われている。また、収入源の広告料収入を大企業に頼る大手マスメディアは、スポンサーとなりうる大企業を批判することに慎重であり、また中国をはじめ経済的に大企業が依存する国家に対しても慎重な態度を取る。一方、一部団体の抗議の対象になるのを避けるため、「放送禁止用語」や「出版禁止用語」を定めて差別的な表現や下品な表現を「自粛」・「自主規制」することが行われている。また、現在進行中の誘拐事件など人命に関わる場合などにも「自主規制」の対象になる。
なお、近年に発生した報道機関を狙ったテロとしては、未だ解決に至っていない赤報隊事件がある。国境なき記者団が作成する報道の自由度を示すランキングでは、調査対象国180ヶ国中、第61位(2015年)である。各国を5段階に分けた分類では、上から3番目の『顕著な問題のある国』にカテゴライズされる。国境なき記者団は日本における課題として、記者クラブ制度により外国人ジャーナリストやフリージャーナリストによる情報のアクセスが妨げられていること、「東日本大震災で発生した津波や原発事故に関しての過剰な報道規制」などを挙げている。また2007年度の調査では「過激なナショナリストによる報道機関への襲撃の減少が見られる」と述べていた。また、2018年には放送法第4条(政治的公正・事実の報道・多角的な報道について規定されている)の撤廃が検討されている。
現在、世界の195か国に日本の大使館が設けられており、155か国が日本に大使館を設け38の国際機関が日本に事務所を設けている。
2018年10月には日本からビザなしで渡航できる国の数が世界一位となった。これまで、日本はシンガポールと並び、ビザを取得しなくても189ヵ国に渡航することができたが、ミャンマーが日本に対してビザを免除したため日本はビザ無しで190ヵ国に渡航出来ることになり、単独1位となった。調査対象となった199の国と地域の中で最多だった。
唯一の軍事同盟国であり、国内に軍隊の駐留(在日米軍)をさせているアメリカ合衆国との関係を最も重視し、世界中の国と友好関係を築いているといわれている。外交の基軸として国際連合(通称:国連、UN)を中心に各国と幅広い外交を展開し、援助や貿易を実施している。伝統的に地理的に近距離にある東アジア各国と強い関係を保持してきた。更に、第二次世界大戦敗戦後から日本国との平和条約(通称:サンフランシスコ講和条約)締結・発効までに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)として日本の間接的占領統治を担った主要国で、その解除後も軍隊の駐留継続をはじめとして多大な影響力が行使されるアメリカ合衆国(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)を最重視している。その他、アジア太平洋経済協力(APEC)の参加国の一国として、東南アジアのASEAN(東南アジア諸国連合)諸国やオーストラリア、かつての冷戦下の西側諸国の一員として西ヨーロッパ各国、欧州連合(EU)主要構成国との関係も深い。また、日本はG7、G8、G20、経済協力開発機構 (OECD)、世界貿易機関 (WTO) 加盟国であり、いわゆる列強に数えられる国家の一つである。
:日本はかつて第一次世界大戦の戦勝国である連合国の一国として、国際連盟(League of Nations)の原加盟国ならびに安全保障理事会常任理事国を務めていたが、やがて脱退し、連合国(現在の国際連合の前進) (United Nations) を相手に枢軸国の一国として第二次世界大戦を戦い敗れたという経緯がある。国際連合は戦後も継続し、日本は敵国条項によって現在もあくまで「敵国」の位置づけである。1956年(昭和31年)にソ連との国交を回復し加盟を果たした。これまでに国際連合安全保障理事会の非常任理事国として最多選出されている。また敵国の位置づけにありながら世界第2位の国連分担金を拠出するという矛盾した状態になっていたが、2018年に決定された2019年からの国際分担金比率は中華人民共和国に抜かされ世界第3位の位置付けになった。しかしながら、敵国の位置付けにありながら高い国連分担金を負担している現状に変わりはない。国連改革の一環としてドイツ、インド、ブラジルなどのG4諸国と常任理事国入りを訴えているが中国や韓国の反対で実現していない。また、国連では約800人の日本人専門職員が働いているが、G7諸国は職員数が1000人以上なのを踏まえると日本人職員の数は少ない。事務局では望ましい職員数の197名に対し事務局で働く日本人職員数は79名となっている。日本の知識層の多くは多大な貢献に比べ、恩恵や評価を受ける以前に敵国条項すら削除されないと指摘している。
長く国連の武力行使を支持しても、経済援助のみに関与するという慎重姿勢を取り、湾岸戦争でも巨額の戦費負担をしたが戦力を出さなかった。しかし近年、PKO協力法などの成立に始まり、課題を残しつつも法的根拠が整った。イラク戦争終結後、自衛隊を派遣して復興支援活動に携わるなどの機会も増えている。
東アジアでは、古来地理的に近距離で隣接する中国や朝鮮などを中心に外交が行われていた。日本は儒教・漢字文化圏の一角であり、伝統的な文化の中には、雅楽、水墨画、陶磁器、禅宗、書道など、東アジアをルーツに持つ物が多い。明治期以降、文明開化により西洋文化を採用して発展した日本の文化が逆に東アジアに伝播した。欧米を始めとする世界中との外交が盛んになるのは、明治維新以降である。かつて日本領であった台湾(中華民国)や韓国(大韓民国)は(日本統治時代の台湾・日本統治時代の朝鮮)、現在でも重要な貿易相手である。北朝鮮(正式国名:朝鮮民主主義人民共和国)に対しては、日本は国家承認しておらず、国交も存在せず経済制裁を実施している。日本、韓国、台湾は、それぞれアメリカ軍と同盟関係・安全保障関係にあり、相互に緩やかな協力関係にある。一方、建国由来から朝鮮戦争以降、北朝鮮と中国(中華人民共和国)とは同盟関係にあり、中国とロシア(旧ソビエト連邦)も協力関係にある。
:日本は1972年(昭和47年)の日中共同声明および1978年(昭和53年)日中平和友好条約締結にともない、中華人民共和国との国交を正常化した。改革開放政策の後、経済成長を達成して数多くの日系企業が生産拠点を移転させ、また、2006年(平成18年)より貿易総額でアメリカを上回って最大の貿易相手国となった。靖国神社問題に関連して関係が悪化した。日本では、2005年の中国における反日活動なども盛んに報道され、また、2008年6月、アメリカの民間調査機関ピュー・リサーチ・センターの調査では、中国を好ましくないと答えた割合が84%(前年比17%増)となり、調査した24カ国の中で最も高かった。また、日本人の中国への旅行者も減少した。一方、中国では、前年比から9%減少したが、それでも69%が日本を好ましく思っていないという調査結果となり、依然として両国民が相互に反発していることが明らかとなった。中国の報道は中国共産党の統制下にあり、一般国民に日本からのODAや謝罪などが周知されているとは言いがたいが、四川大地震に際しての国際緊急援助隊の救援活動など、中国人からの感謝の意が表れる出来事もある。2010年以降、GDPで日本を抜いて、無視できない存在となっている。
軍事面では日本全土を射程に収める核弾頭を搭載可能な弾道ミサイル東風21型を推定100発、精密攻撃が可能な巡航ミサイル東海10型・長剣10型を推定600発保有しており日本の脅威となっている。
:現在、国交は存在しない。北朝鮮は、韓国併合(旧李氏朝鮮・大韓帝国の大日本帝国への併合)に対する評価や賠償問題・請求権問題、いずれについても決着していないとする立場である。日本国政府は、日韓基本条約に基づいて大韓民国政府のみが朝鮮半島の正統な政府であるとの立場である。また、賠償問題も韓国との条約によって解決済みとの立場である。2002年(平成14年)の日朝首脳会談では、賠償権を相互に放棄し、日本が北朝鮮へ経済協力を実施する方法で合意したと発表されたが、その後、国交正常化交渉の停滞を招いている。背景には、北朝鮮による日本人拉致問題や不審船事件などに対する日本の世論の反発や北朝鮮核問題などで孤立を深める北朝鮮の現状がある。日本は、現在これらを受けて経済制裁を北朝鮮に実施している。北朝鮮は、核カードを使ってアメリカからテロ支援国家指定の解除を引き出した。2012年(平成24年)4月、北朝鮮は自国憲法(朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法)に核保有国と明記した。軍事面では西日本を射程に収める短距離弾道ミサイルのスカッドERを推定350発、日本のほぼ全域を射程に収めるノドンミサイルを推定200発保有しており、日本の安全保障上深刻な脅威となっている。
:建国当初より一般国民における反日感情が強く、朝鮮戦争中には韓国を支援するために警察予備隊(現在の自衛隊の前身組織)の掃海部隊や港湾労働者を韓国に派遣するとともに日本国内での韓国軍(大韓民国国軍)の軍事訓練を受け入れるなどしたが、1952年(昭和27年)には韓国が一方的に李承晩ラインを宣言し竹島を占拠したことによって多くの日本人漁師が殺害・拿捕され、竹島問題が発生した。また、日本に潜入した工作員によって新潟日赤センター爆破未遂事件や金大中拉致事件などの事件が起こされている。四月革命により李承晩独裁政権を打倒し軍事政権を樹立した朴正煕は国民多数の反発を押しきって日韓基本条約を締結し、日本との国交を樹立、日本から得た賠償金を経済成長の原資としたが、これを国民に隠蔽していたために後に日本統治下の植民地支配の賠償をめぐる紛争が起きる原因となった。韓国では近年まで日本の大衆文化禁止政策が実施されていたが、金大中政権で日本の大衆文化の自由化が進められ、日本への親近感を抱く人々の増加も見られた。盧武鉉政権では当初は日本との融和姿勢を見せたものの、間もなく強硬な外交方針に転じ、日本との領土問題や歴史問題にも強硬姿勢で臨んだ。2005年(平成17年)、盧武鉉大統領はアメリカ政府に対して日本を仮想敵国として想定するように提案した。政権時代後半には竹島問題などで「対日外交戦争」を公言し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝などもあって日韓関係は冷え切っていた。李明博政権では、前政権で悪化した近隣諸国との関係を修復し、日本にも比較的穏健な姿勢で臨む方針を当初は見せたが、今上天皇への謝罪要求や知的財産や漁業権の侵害や竹島問題など根本的な改善の兆しは見られなかった。韓国軍は日本全土を射程に収める巡航ミサイル玄武-3ミサイルを配備している。これに伴い韓国での日本大衆文化の流入制限も徐々に制限を緩和しつつある。2010年(平成22年)9月、日本の女性アイドルグループであるSKE48が日本語で歌唱する姿が韓国の地上波テレビで初めて生放送された。両国間で日韓犯罪人引き渡し条約を締結しているが、靖国神社に放火した犯人を政治犯として釈放したことについて、安倍晋三内閣総理大臣は「条約を無視する行為である」と述べ韓国側の対応を批判した。
:台湾(中華民国)は、日清戦争で大日本帝国に割譲されて以来第二次世界大戦終結まで50年間の日本統治時代を経験している。第二次世界大戦後は国共内戦で中国共産党軍(現在の中国人民解放軍)に敗北した中国国民党が1990年代まで独裁政治を敷いてきた。かつて日本は中華民国を中国の代表政権と見なしていたが、1970年代の日中国交正常化の際、日本は中華人民共和国を正当な国家として認定し、かつ中華人民共和国に配慮し台湾を独立した国家とはみないことを約束した。日本政府は現在までこの中華人民共和国優先政策を対中台外交の基本姿勢としている。2011年現在も台湾を国家として承認しておらず、双方ともに大使館を配置しない代わりに民間の利益代表部を置く。1996年に国民党一党独裁が解消され、その後は国民党と民主進歩党との二大政党である。日本統治時代を経験した多数派の本省人が親日的傾向が強いのに対し、政治的実権を握っていた少数派の外省人は、反日姿勢が強いと言われていたが、1990年代には本省人である李登輝が総統に就任するなど融和が進展した。安全保障面において台湾は、台湾関係法などを背景にアメリカ軍と密接な関係にあり、日米安保体制を維持する日本とも間接的な協力関係にある。1970年代以降、日台間でも尖閣諸島の領有問題があり係争も勃発したが、深刻な対立に至っていない。人的・経済的な交流は、一貫して盛んで、特に近年は李登輝政権以降の台湾本土化運動の結果として国民の親日姿勢が強まる傾向にある。2011年3月11日発生の東北地方太平洋沖地震・東日本大震災では、台湾から世界最多となる200億円超の義援金が日本に送金された。また、交通面において海外で初めて日本の新幹線システムの一部を採用した。
歴史的には日本と東南アジア地域との関係は朱印船貿易が盛んだった16世紀末から17世紀ごろまでさかのぼる。日本が鎖国をした江戸時代の間に、タイ王国を除けば東南アジア地域は欧米列強(アメリカ、イギリス、オランダ、フランス)の植民地になっていった。第二次世界大戦では日本と同地域を植民地支配する欧米列強との交戦地となったために同地域の住民にも多数の犠牲を出した。しかし第二次世界大戦後に独立を果たした各国は日本と国交を結び、良好な友好関係を構築し、それを堅持している。タイ、フィリピン、マレーシアなど経済的にも文化的にも関係が深く、互いの国民に対する感情も良いとされる。また、日本は、これら各国との経済関係を1970年代ごろからASEANを通じて深めており、1997年からASEAN+3に参加している。また自由貿易協定 (FTA) の締結を模索している。自衛隊のPKOとしての派遣も、初の派遣がカンボジアへ、また東ティモールへも派遣された。東南アジア諸国連合 (ASEAN) 諸国との間で定期的に首脳会談を行い、関係を重視している。また、この海域(特にマラッカ海峡)は、中東から輸入した原油の9割近くが通過するなど非常に重要なルートであるが、海賊が頻繁に出没する。その対策として、海上保安庁が各国の沿岸警備隊に対して指導・共同訓練を行っている。天皇皇后がタイ、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリピンを訪問している。
:タイ王室と皇室との関係も良好で、日本とタイの貿易結合度は第一位となっており、世界とタイとの平均的な結合度の4倍となっている。
:フィリピンの主要貿易相手国はアメリカと日本であるが、近年は中国や韓国との貿易も増えている。在日フィリピン人は、在日外国人として国籍別で第4位の人口を有する。16世紀にはスペインが当時の領有地だったフィリピンを対日貿易の拠点とし、日本を追放された高山右近も受け入れたが、江戸幕府の鎖国政策による外交関係の断絶とともに日本との交流は途絶えた。太平洋戦争(大東亜戦争)では当時アメリカ自治領だったフィリピンに日本軍が侵攻し、現地住民を巻き込んで激戦地となった経緯があり(フィリピンの戦い)、戦後のフィリピンでは対日感情が悪かったが、経済支援などによって徐々に改善が進められた。
:1905年(明治38年)、フランス領インドシナとしてのフランス統治に反発するベトナム民族運動家達は日露戦争勝利後の日本に留学する東遊運動を行ったが、日本政府は1907年(明治40年)締結の日仏協約によって運動家を追放した。第二次世界大戦でフランス第三共和政が崩壊した後、日本は日中戦争(支那事変)の一環として1940年(昭和15年)に仏印進駐を北部に、1941年(昭和16年)には南部に実施したが、特に南部仏印進駐は同年12月の日米開戦を強く促した。1945年(昭和20年)3月にベトナム帝国を成立させてフランスを排除した日本が同年9月に降伏すると、北ベトナムとして成立したベトナム民主共和国、現在のベトナム社会主義共和国は、ベトナム戦争において日本と安全保障面で協力関係にあるアメリカ合衆国と交戦したベトナム共産党による独裁政権であるが、同戦争では日本は直接参戦を行わなかった。ベトナム戦争終結前、まだ南ベトナム政府が残留していた1973年(昭和48年)には日本との国交を樹立し、日本はベトナムに多額の開発援助を続けてきた。近年も日本の国際連合安全保障理事会(通称:国連安保理)への常任理事国参入をどのような圧力を受けたとしても支持すると表明するなど日本に協力的である。一方、1975年のベトナム統一後に社会主義政策を嫌ってボートピープルとなったベトナム難民(インドシナ難民)の一部を日本は受け入れている。
:イギリス領マラヤの中心都市だったシンガポールは1942年(昭和17年)にシンガポールの戦いによってイギリス軍を破った日本軍が占領すると昭南島と改称され(日本占領時期のシンガポール)、1945年(昭和20年)の日本の降伏まで軍事占領と華僑系を中心とした住民の抵抗が続いた。1966年(昭和41年)にシンガポールがマレーシアから追放されて分離独立すると日本は直ちに承認し、友好関係を維持した。2002年(平成14年)には日本・シンガポール新時代経済連携協定を結び、日本にとって初の自由貿易協定締結国である。
:旧フランス植民地のカンボジアでは、日本からは経済面での支援や地雷撤去の活動なども精力的に行われている。また、文化面でもクメール・ルージュによって破壊・弾圧された仏教の施設や信仰の復興に、日本の仏教界が大きく貢献している。カンボジアは日本の常任理事国参入について不変の支持を行っている。
:旧オランダ植民地で、独立の際に一部の日本人が関与したこともあり、親日派もいた一方、1960年代の政局の混乱のなか共産党勢力の台頭に伴い中国等へ接近したが、1966年以降のスハルト体制は再び日本との関係を強めた。2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。そのためロシアや中国との関係強化をすすめ、多極外交を展開している。日本との関係は良好で、LNG貿易をはじめ日系企業も多数進出し、また日本の政府開発援助 (ODA) はハードインフラ整備に加え、市民警察活動促進計画 など統治能力支援(ガバナンス支援)や法整備支援 などソフトインフラ整備の支援も近年行っている。スマトラ島沖地震では、金額で国別3位の支援を早急に決めて拠出し、更にアチェ州へ海上自衛隊の艦艇を派遣した。防災システムの構築にも支援を行っている。
:軍事・経済・政治すべてにおいて緊密な関係にある。黒船来航から始まる経済関係は、アメリカ合衆国の経済力を背景に大きなものであり続け、2006年(平成18年)まで最大の貿易相手国だった。大東亜戦争(当時の日本側呼称、第二次世界大戦戦線の一部)では、東アジア・西太平洋地域で4年間戦闘に至った末に降伏し、米軍を中心とした連合軍に占領された。アメリカ合衆国はGHQ(SCAP)を通して7年の占領統治で中心的な役割を果たした。日本はサンフランシスコ講和条約にもとづき1952年(昭和27年)4月28日に主権が回復するが、依然として在日米軍に自国の安全保障の大部分を依存している関係は続き、翌年には日米安全保障条約が締結されいわゆる「日米同盟」が成立した。アメリカ合衆国にとっても本土から遠距離にある極東地域に軍事基地用地を提供し、日本においては思いやり予算とも呼ばれる多額の軍隊駐留費用を負担する同盟国の存在は重要なものであり、強固な同盟関係が続いている。これについて反対運動、特に基地の地元住民の米軍基地反対運動と基地移転問題が外交問題に発展することもある。日米関係は親密であるがゆえに時として摩擦も大きくなることがあり、ジャパンバッシングのような現象が起きることがある。そしてアメリカ合衆国政府の意向は、対日要望書などの形を通して日本政府に伝えられ、日本の政策決定に影響力を与える「外圧」となっているとされる。また、犯罪人引渡し条約を締結する数少ない国の一つである。
オセアニアの中でも南洋諸島の各国は、かつて日本が委任統治領ないし占領地として統治下に置いていたこともあり、関係が比較的深い。ミクロネシア連邦では、日系人のトシオ・ナカヤマやマニー・モリが大統領に選ばれている。パラオは、かつて日系のクニオ・ナカムラが大統領に就任し、一部の自治体で日本語が国の公用語として採用されている(実際に日本語を日常的に使用しているわけでなく、象徴的な意味合いが強い)などの経緯もあり、官民とも非常に親日的である。
:オセアニアで最大の影響力を持つオーストラリアと非常に緊密な関係を築いている。日米豪の防衛首脳会談が行われたこともあり、経済、軍事、外交などで共同歩調を取る。2007年(平成19年)3月には、自衛隊とオーストラリア軍とが国際連合平和維持活動(PKO活動)の共同訓練、反テロ活動、津波など地域災害に協力して当たることなどが盛り込まれた安全保障協力に関する日豪共同宣言に調印した。これにより、日本にとって安全保障分野で正式な協力関係を結ぶ(アメリカに続く)2番目の国となる。
日本とロシアとの関係は1792年にアダム・ラクスマンが当時のロシア帝国の使節として根室(現在の北海道根室市)に来航したときにはじまる。江戸時代末期・幕末に江戸幕府との間で択捉島と得撫島の間を国境とする『日露和親条約』が締結された(日本ではこの条約を「北方領土」の固有性の根拠としている)。ラクスマン来航のときにすでにロシアは南下政策をとっており、中央アジアやコーカサス地域も征服しており社会主義革命でソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)が成立してからもこれら地域はソ連の構成国として維持された。そのために、中央アジアの西トルキスタン諸国やコーカサス地方の国々との関係は1991年のソ連崩壊後に本格化した。1997年(平成9年)に橋本政権が「ユーラシア外交」が提案されのちの政権も継承されることになった。しかし、2001年9月11日の米国ニューヨークでの同時多発テロ以降は低調である。経済基盤の貧弱な国が多く、更に海に面していないために輸送コストなども掛かるなどの理由から、一部の希少な地下資源を除き、貿易などの経済的な関係も他地域と比べて活発と言えない状況にある。ただ、この地域に栄えた古代王朝や仏教遺跡の研究などの学術関係での交流は活発である。
:日露関係は断続的に関係が深まる時期をはさみつつも、対立の時期が長い。これはかつての帝政ロシアが伝統的に南下政策を取り、太平洋への出口を求めたため、通り道の日本との間に地政学的な対立構造があるからである。満州(現在の中国東北部)・朝鮮半島の支配権をめぐって1904年(明治37年)に勃発した日露戦争や、1917年(大正6年)に起こったロシア革命に日本などの諸国が干渉して起こしたシベリア出兵、第二次世界大戦終戦直前にソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して日本支配地域に侵攻したソ連対日参戦などが起こってきた。日本のポツダム宣言受諾(日本の降伏)による終戦後も南樺太と千島列島への侵攻を続け併合し、日本軍兵士を捕虜として連行してシベリア抑留をするなどの行為が日本の人々の反感を生み、1956年(昭和31年)の日ソ共同宣言で一応国交が回復した後も、冷戦の中で緊張関係が続いてきた。1986年(昭和61年)以降に関係の改善が進み、1991年のソ連崩壊によりその外交権を継承したロシア連邦も比較的友好的な対日政策を取った。現在の日露両国の間では、経済的な交流も盛んだが、領土問題やそれに起因する漁民銃撃・拿捕事件、資源問題(サハリン2を参照)なども生じており、その関係は円滑ではない。
南アジア各国とは友好関係を維持している。6世紀とされる仏教公伝以来、日本の宗教・文化・政治に深く根ざした仏教(大乗仏教)の発祥地として古代インドは「天竺」の名で広く知られ、サンスクリット(梵語)で書かれた仏教経典や哲学思想が広く流入した。また、16世紀後半からの南蛮貿易ではポルトガルがインド西海岸のゴアに築いていたポルトガル領インド植民地が重要な中継点となっていたが、南アジア諸国と日本の正式な外交関係は第二次世界大戦後の各国独立と日本の主権回復後に始められた。日本は「戦争による唯一の被爆国」であるということから(日本への原子爆弾投下)、核実験を実施したインドやパキスタンと距離を置いていた時期もあったが、近年、両国との関係が重視されるようになり、2006年(平成18年)に外務省アジア大洋州局に南部アジア部を新設した。宗教的な対立要因が存在していないため、両国間では特に厳しい対立関係にあるインド・パキスタン双方を含め、各国民の対日感情は比較的良好とされる。
一方、間に巨大な中国文化圏が存在し、7世紀以降に西アジアで広く信仰されたイスラム教の日本伝播が20世紀まで非常に希で、政治・経済面でも戦前の日本が英仏統治下の西アジアに入る余地はなかったため、日本と西アジア地域はトルコやペルシア(1935年からイラン)との小規模ながら友好的な外交関係を除くと希薄なままだった。しかし、1950年代に日本がペルシア湾周辺の油田についてイラン・サウジアラビア・クウェートなどの湾岸諸国と相次いで協定を結び、1960年代以降は原油輸入元の大半を中東諸国が占めるに至って、日本経済の根幹に関わる「エネルギー外交」で中東諸国との関係が死活的に重要となった。近年では日本の自衛隊が中東地域での活動を行い、一方では日本人が犠牲になった殺害事件も起こるなど、西アジア諸国との関係は新たな段階に入っている。
:19世紀後半以降、日本とイギリス領インド帝国は綿織物市場で激しい国際競争を続けたが、日露戦争での日本の勝利はインドの民族運動家に「アジアの解放」という希望を与えた。その後の日本が帝国主義政策を進めると、ジャワハルラール・ネルーはこれを批判したが、スバス・チャンドラ・ボースはその後も日本に期待し、第二次世界大戦で日英が開戦すると日本は「大東亜共栄圏」の一員としてボースによる自由インド仮政府設立を支援し、インパール作戦でインド侵攻を目指したが敗退した。しかし、日本の軍事行動がイギリスのインド統治に打撃を与えた事もあり、ネルー首相の下で1947年に独立したインド共和国は「非同盟運動」を掲げながらも敗戦国日本への融和と支援を続けた。
その後はインド国民会議派政権が非同盟を掲げながらソ連との軍事協力を重視し、国内でも国家統制や計画経済を基本とした「インド型社会主義体制」を取り、さらには1974年に核実験を実施した影響で、日本とインドの関係は知名度や距離の割には強くなかったが、1990年代のインド経済の市場化やインド人民党による政権交代などで、日本の経済進出が加速した。また、巨大化する中国を東西から挟む地政学的な理由もあり、今後関係が特に親密になると期待されている国のひとつで、近年の著しい経済発展や、情報技術での実績が注目されている。日本とインドはG4として共に行動する立場であり、2008年10月には、両国首脳が日印安全保障協力共同宣言(日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言)に署名し、日本にとって、アメリカ、オーストラリアに次いで、安全保障分野で正式な協力関係を結んだ3番目の国となった。さらに2010年、日本とインドは関税を段階的に撤廃するFTA(自由貿易協定)を柱としたEPA(経済連携 協定)を締結することで大筋合意した。これが達成されれば、日本からインドへの輸出の約90%、インドから日本への輸出では約97%に相当する物品で、10年以内に関税がゼロになる。
:1998年の地下核実験から2005年4月まで援助を停止していた。しかし、自衛隊イラク派遣などで、安全保障の観点から中東への影響力が強いパキスタンの協力が必要と感じた日本政府は、当時の小泉純一郎首相が訪問したのを機に有償資金援助を再開した。
:1973年の独立以来世界最貧国の一つとも言われ、日本は、経済、保健、自然災害対策など多くの面で援助を行っている。また、日本と比べると非常に安い製造費での出荷が可能という点が着目され、アパレル産業を中心とした日系企業の進出が続いている。近年はバングラデシュの高度経済成長が続いているが、その労働条件の劣悪さが非難される事もある。
:日本は、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群の修復などに多額の援助を行っている。アメリカ合衆国が行った武力攻撃を支持したが、部隊の派遣は、自衛隊インド洋派遣に留めている。
:日本と共に古代から続く領域国家で、8世紀に収められた奈良の「正倉院」の宝物庫にはサーサーン朝ペルシアの影響を受けた文物も収められている。正式な国交樹立はパフラヴィー朝成立後の1926年まで遅れ、第二次世界大戦末期の1945年2月には英ソ両国に占領されたイランが対日宣戦を布告したが、1953年の国交回復後は石油輸入元の確保を求める日本側とイギリスからの石油利権奪回を狙うイラン側の利益が一致し、油田開発や反共主義外交で両国間の関係は緊密になった。1979年にイラン革命が成功してイスラム教による国家統治と強烈な反米主義を掲げるイラン・イスラム共和国が発足した後も両国は友好関係の維持を求めたが、続くイラン・イラク戦争やアメリカによる対イラン経済制裁の影響を受けてイラン・ジャパン石油化学(IJPC)プロジェクトが中止され、その後もイランの核開発問題などが災いして、両国間の経済関係は現在でも双方の期待ほどには進展していない。
:イラク戦争の後、自衛隊イラク派遣を行った。
:日本は、中東和平やパレスチナ問題に関して中立の立場であり、政府高官が訪問する際には、イスラエル・パレスチナ自治政府の双方と会談が設定される等、バランスが図られている。
:親日国の代表として紹介される国である。オスマン帝国末期の1890年のエルトゥールル号遭難事件が友好関係の起源としてしばしば取り上げられる。経済技術面での交流では日本の建設会社によってボスポラス海峡にファーティフ・スルタン・メフメト橋を建設したことが挙げられる。
日本が明治維新において近代化の模範としたのがロシアを含むヨーロッパ、よりわけ西欧諸国であり、『脱亜入欧』(福沢諭吉)の造語にあるように、明治時代以降に日本が留学生の派遣、お雇い外国人の使用などで積極的に学問、技術、文化の摂取に努めた。第二次世界大戦以降、西ヨーロッパを中心とする北大西洋条約機構(NATO)諸国と間接的な同盟関係にある。また、皇室は、イギリス王室をはじめ、オランダ、スウェーデン、ベルギーなどのヨーロッパ各国の王室と深い友好関係を築いている。一方、特にオランダなどには、第二次大戦で交戦したことによる悪感情が一部に残っているとも言われる。冷戦の終結によって「鉄のカーテン」が撤去されると社会主義陣営に属していた旧東欧諸国やバルト三国との交流も活発となり、今上天皇・皇后美智子が2002年(平成年)にポーランド、ハンガリー、チェコを、2007年にエストニア、ラトビア、リトアニアを訪問している(立ち寄りもふくむ)。
:日仏関係は、幕末には江戸幕府がフランスの軍制を採用するなど、交流が始まり、明治期には法制面で影響を受けた。政治・経済面よりも文化面での交流が深い点に特徴がある。江戸時代の日本の文化は「ジャポニズム」として印象派美術などフランス文化に影響を与えた。またフランス文化は、美術、音楽、食文化、文芸などの面で日本の近代化に大きな影響を与えた。近年ではサブカルチュアーの分野での交流が盛んである。
:日独関係は、日本が近代化を進めるにあたって、イギリスおよびアメリカ合衆国との関係に次いで重要な役割を果たした。科学技術・音楽・法律・文芸などにおけるドイツの影響は、現在の日本にも色濃く残っている。第一次世界大戦で日本と当時の帝政ドイツは交戦国となり、勝利した日本はアジア・太平洋地域におけるドイツの利権を獲得する。第二次世界大戦で日本とナチス・ドイツは対ソ連を意識して日独伊三国軍事同盟を締結したが、同盟はついに実効的なものとはなり得ず、両国は互いに不本意ながら米英を敵に回し敗北するという結末となった。戦後は、共に焼け野原から奇跡の復興を果たした経済大国として平和的な関係となり、重要なパートナーとしてイギリスやフランスを凌ぐヨーロッパ最大の貿易相手国となった。さらに、政治の面でも共に常任理事国参入を目指すG4のパートナーとして行動する。
:日英関係は、江戸時代前期の三浦按針に始まり、途中日本の鎖国や第二次世界大戦による中断をはさみながら長く続いている。特に強調されるのは19世紀後半から20世紀初頭の日本の近代化に果たしたイギリスの役割であり、イギリスは経済・文化・学術・政治・軍事のあらゆる面において日本に最も強い影響力があった。1902年(明治35年)、両国はロシアへの対抗として日英同盟を締結し、日露戦争や第一次世界大戦、シベリア出兵において相互に支援を行った。しかし、日中戦争(支那事変)と日独伊三国同盟によって両国は敵対することとなり、第二次世界大戦において交戦国となった。終戦後、イギリスは連合国の日本占領に参加した。占領終了後は、日本の皇室とイギリス王室の交流をはじめ、経済・文化面でも深い関係を築いている。
:日本とブルガリアの関係は、ジフコフ国家評議会議長が二度来日するなど、社会主義時代から交流があった。大阪万博でブルガリア館がヨーグルトを展示して以降、日本ではヨーグルトの国として有名であり、明治ブルガリアヨーグルトはブルガリア政府から許可を得て国名が使用されている。
総じてラテンアメリカと呼ばれる地域とほぼ一致するアメリカ大陸の中南部は、日本が西欧諸国との接触を持った16世紀には既にスペインやポルトガルの支配下にあった。スペインは現在の中米諸国やフィリピンを含むヌエバ・エスパーニャを統治し、ここを通じて対日貿易の展開や慶長遣欧使節の受入などを行ったが、使節団の帰国時には江戸幕府の鎖国政策が強化されており、日本と同地域との交流は17世紀前半に一度途絶した。
19世紀後半に日本が開国し、続いて明治維新が起きた時、ラテンアメリカ地域は既にほとんどが独立していた。明治政府は江戸幕府がアメリカ合衆国や西欧諸国との間で結んだ「不平等条約」の解消に苦心する中、ラテンアメリカ諸国との平等条約締結による外交実績の強化に動き、メキシコを皮切りに次々と外交関係を樹立した。中南米諸国も農業労働力の確保に利点を見いだし、19世紀末から日本人移民の受入を開始した。ただし、この地域はモンロー主義以来、アメリカ合衆国が強い関心と影響力を維持しており、真珠湾攻撃で1941年に日本とアメリカが第二次世界大戦(太平洋戦争)に突入するとメキシコ以外の中米諸国は即座に、それ以外の国も1942年のブラジル・メキシコから1945年までに全て対日宣戦布告を行って、一部では日系人の強制収容やアメリカ合衆国への国外追放も実施した。戦後は日本がアメリカの強い影響下に入った事もあり、両地域の交流は再び強化され、日本企業の進出や日系人労働者の日本移入なども行われた。また、東南アジアの経済発展も取り込む環太平洋パートナーシップ協定(TPP)に日本やメキシコ、ペルー、チリなどが参加し、同協定に不参加となったアメリカ合衆国を抜きにした独自の協力強化も進められている。
中央アメリカ(中米)諸国とは、人的・文化的な交流に乏しいものの、経済的な関係を中心に平穏な関係を保つ。また、キューバなどの社会主義国とも経済・文化の両面で友好的な関係が築かれ、ペルー日本大使公邸占拠事件でも日本の要請を受けたキューバがゲリラの亡命受け入れを受諾するなど協力した。
南アメリカ(南米)は、地理的に地球の真裏に位置するが、下記のように19世紀の後半からペルーやアルゼンチンと深い友好関係を有する。また、かつて日本からの移民を大量に受け入れた経緯もある。貿易関係では、チリとの関係が特に大きく、戦前からの友好関係が続くアルゼンチンやパラグアイといった親日的な国も多い。
:1973年7月10日の独立から二日後の同27日に独立承認。1975年から外交関係が設立される。2011年に「脱税の防止のための情報の交換及び個人の所得についての課税権の配分に関する日本国政府とバハマ国政府との間の協定」が結ばれたが2017年1月に改定することが両国で実質合意した。(バハマはタックス・ヘイブンとして知られている)
:中米諸国の中で最も関係が深い。幕末~明治期の開国以降に結ばれた日墨修好通商条約は、それまで列強各国の不平等条約に苦難を強いられた日本にとって、初めての平等条約である。その関係で、数ある諸外国の大使館の中でも国政の中枢地区ともいえる東京都千代田区・永田町に所在するのは、メキシコ大使館のみである。第二次世界大戦では1942年にメキシコが対日宣戦布告を行い、フィリピン戦線では日本軍とメキシコ軍が交戦したが、メキシコ政府は国内の日系人に対する強制収容は見送った。戦後の両国間の関係は良好で、多数の日本企業が進出するなど経済的な関係も深い。特に自動車産業はメキシコと接するアメリカ合衆国への輸出も盛んで、1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTA)の恩恵も受けたが、自国産業や労働力の保護をアメリカ政府が取るとその影響を受ける環境にもある。
:1872年(明治5年)にマリア・ルス号事件をきっかけに修交が始まった。多くの移民が渡航し、ラテンアメリカ(中南米)で2番目に日系人口が多く、第二次世界大戦では日系人の逮捕とアメリカ合衆国への国外追放がラテンアメリカ諸国で最も多く行われた。1990年代に日系人であるアルベルト・フジモリ(スペイン語で「フヒモリ」)が大統領に就任して急速に関係が緊密化し、在ペルー日本大使公邸占拠事件の強行解決にも成功したが、失脚の後、日本に亡命した。フジモリは出生時の日本国籍所持が有効と認められて参議院議員選挙に立候補した後にペルーに帰国して有罪判決を受けたが、娘のケイコ・フジモリは2度にわたり大統領選挙で惜敗するなど、日本及び日系人の存在感は今でも強い。フジモリ派と近いペドロ・パブロ・クチンスキ政権はTPP参加を決めるなど、日本との関係を重視している。
:1898年(明治31年)、当時のロシア帝国との戦争に備えて軍艦リバダビア、モレノをそれぞれ春日、日進として購入し、それらが日露戦争で活躍したことなどから本格的な関係が開始された。また、フォークランド諸島の領有権を巡って勃発したイギリス対アルゼンチンのマルビナス戦争(フォークランド紛争)の最中、アメリカ政府やイギリス政府などからの再三の要請にもかかわらず、アルゼンチンへの禁輸措置を実施しないなどの日本の独自外交は、アルゼンチンの知日家から高く評価される。
:約180万人という海外で最大規模の日系人社会が築かれていることもあり(日系ブラジル人)、政治・経済面のみならず、文化的な面からも非常に深い関係を維持している。特に、Jリーグが開催し始めて以降、ブラジル人選手が最多数の外国人選手であり続けている。また、G4として共に国連安保理常任理事国参入を目指していることもあり、国際政治上で連携することも多い。
アフリカ諸国は、日本とは歴史的に関係が少なかった。主に日本からアフリカ諸国への開発援助と、アフリカ諸国からの地下資源や農水産物の輸入と日本からの工業製品の輸出という貿易関係が多い。
1993年から、ODAなどの経済支援を含む経済的・人的な交流を深める目的で、日本、国際連合、アフリカのためのグローバル連合、世界銀行が共催し、アフリカ開発会議 (TICAD:Tokyo International Conference on African Development) を開始した。
近年、アフリカ諸国に大使館を増設するなど関係強化に乗り出している。
サッカーなどスポーツの分野においては、アフリカ諸国の選手団を日本に招待した試合が行われており、良好な関係を築いている。
:アパルトヘイト(人種隔離政策)で世界から孤立していた時代にも、多数の日本企業が進出して比較的密接な関係を築いていた。このため、国際社会から厳しい非難を浴びていた時期に、日本人は同国から「名誉白人」(国連から非難決議を受けた)の扱いを受けていた。
イギリスの公共放送BBCによる国際世論調査では、好ましい国の上位に挙げられている。2013年実施の調査結果では好ましい国の4位となっているが、大韓民国、中華人民共和国からの評価は低い。
以下の領有を巡る領土問題等を抱える。
警察の機構は、内閣府の一機関たる国家公安委員会・警察庁、そして各都道府県の公安委員会・警察本部による二層構造であり、後者の下部組織たる警察署、更に日本から発祥の交番の存在が地域の安全を担う。交番は地域に根ざして、小ブロックの担当地域を効率的かつ濃密に警備できる。SAT等をも擁する文民警察である。
他に、沿岸警備隊たる海上保安庁が国土交通省の外局として、また、国境警備隊たる機能の一部を担う法務省入国管理局(入国警備官)や財務省の税関(税関職員)、あるいは、特に薬物犯罪を専門に管轄する厚生労働省の各地方厚生局麻薬取締部(麻薬取締官)などが、それぞれ設置されている。
銃砲刀剣類所持等取締法により、銃・刀剣などの武器の所持を厳しく規制している。国連薬物犯罪事務所の統計によれば、国連加盟192国の内、犯罪・刑事司法の統計を報告している国の中で、殺人、誘拐、強姦、強盗などの暴力犯罪の発生率が著しく低い。その理由については、制度的な要素、社会的な要素、日本人の遵法意識の高さなど諸説あるが、その一つとして厳しい銃規制も挙げられる。但し、イギリスの銃規制に見られるように日本と同等ないし罰則だけなら日本よりも厳しいのにもかかわらず、殺人事件に占める銃の使用される比率が日本の倍を超える国が存在するなど、銃規制のみが治安維持に貢献しているわけではない。
刑務所および拘置所は法務省が管理し、刑務官が実務を担う。
防衛組織である自衛隊は、事実上の軍隊として機能し、陸上自衛隊・海上自衛隊・航空自衛隊から構成され、内閣総理大臣および防衛大臣による文民統制の下、防衛省によって管理される。また、事実上の準軍事組織として沿岸警備隊たる海上保安庁が存在するが、海上保安庁に対処が困難な事態が発生した場合、主に海上自衛隊が担当する。
大日本帝国憲法の統帥権を根拠に旧日本軍が政治に深く関与したことへの反省から、自衛隊法第7条により、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮監督権を持つと規定され、文民統制に注意が払われている。また、同じく戦前への反省から自衛隊海外派遣は長らく行われてこなかったが、自衛隊ペルシャ湾派遣や自衛隊カンボジア派遣を契機に開始された。現在では、海外派遣任務は自衛隊の主要任務となっている。
第二次世界大戦後、日本の部隊は、その所属にかかわらず、一切の直接の戦闘を経験していない。連合国軍の占領下にあった1950年、朝鮮戦争で海上保安庁の機雷掃海部隊(特別掃海隊)が派遣されたことがあり、死傷者も出している。富士総合火力演習やその他の公開演習などを通じて高い練度を評価されることも多いが、他国の軍隊や民兵組織と交戦に至った経験はなく、実際の戦闘においての能力は、未知数である。
日米安全保障条約に基づき、在日米軍が駐留する。
(イギリスの経済紙・エコノミストの調査部門であるエコノミスト・インテリジェンス・ユニットが平和の指標として24項目を数値化する)「世界平和度指数」の2009年度版によると、戦争・内戦・テロ、それによる死傷者が無く、軍事費のGDP比が低く、犯罪率が低いことなどから、ニュージーランド、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、オーストリア、スウェーデンに次いで7位に評価され、2010年には3位とされている。ただ、この指標にはアメリカに防衛を依存している日本などに対し有利な計算方法との指摘が出ている。
以下のような政策・傾向を継続している。
ストックホルム国際平和研究所 (SIPRI) の統計によると、以下の通りである。
このように GDP に対する割合の順位(世界の150位前後)に比べてドル換算した絶対額の順位(世界7位)の方が格段に高い理由として、以下が挙げられる。
冷戦の時代、ソビエト連邦が最大の仮想敵国であり、自衛隊の部隊も北海道など北方に重点が置いて配置されていた。冷戦はソ連崩壊によって終結し、現在は軍拡を続ける中国、水際外交や国家犯罪を繰り返す北朝鮮の脅威の方が増している、これらへの対抗から部隊の西方への移転が進められている。防衛白書も、近年は中国・北朝鮮に対する脅威を主張している。しかし、根拠地の移転には広大な敷地や大規模な工事が必要なこともあり、あまり進んでいない。
日本は、修正資本主義・市場経済を採用する工業国であり、2016年時点で、国内総生産 (GDP) がUSドル時価換算の為替レートで世界第3位(購買力平価 (PPP) で世界第3位)に位置する経済大国である。一人当たり GDP は2015年時点で、USドル時価換算で世界第26位、購買力平価 (PPP) で世界第31位である。
通貨である円 (¥, yen, JPY) は、高い信認を有する国際通貨の一つである。日本人は、その信認の高さから現金決済や貯蓄を好む傾向がある。1964年に経済協力開発機構 (OECD) に加盟し、サミット(主要国首脳会議・当時のG5・後にG7・G8)にも1975年の第1回から参加している。
明治以来、西欧型の民法典を導入し、財産権を基礎とした資本主義を経済の基本とする。第二次世界大戦時の戦時体制を経験した後、物価統制令や傾斜生産方式、外貨準備に伴う割当制など、通産省や大蔵省が主導する護送船団方式により、製造業を軸に高度経済成長を果たした。1968年、国民総生産 (GNP) ベースでアメリカ合衆国に次いで第2位の規模の資本主義国となった。他の資本主義諸国と比較して失業率も低く、「最も成功した社会主義国家」と言われた時代もあった。1974年のオイルショックを機に安定成長期に入り、自動車、電化製品、コンピュータなどの軽薄短小産業(ハイテク産業)が急成長する産業構造の転換が進んだ。円高が進む中、比較劣位の産業のいくつかは、競争力を喪失して衰退し、自動車産業など、比較優位で競争力の高い輸出産業は、円高の波を乗り切り、基幹産業として世界でも最高水準の競争力を持つに至った。しかし、製造業では生産拠点が海外に流出する空洞化が進行している。1990年代前半にバブル景気が崩壊したことによる不況で、「失われた10年」と呼ばれる長期不況に苦しんだ。日本の経済成長率は、高度成長期はもちろんのこと、安定成長期にも欧米を上回っていたが、1990年代以降は欧米や東アジア諸国を大幅に下回っている(1991年から2009年までの日本の平均経済成長率は0.8%)。日本は継続的にアメリカ国債を購入し、2012年3月時点で1兆830億ドル分を保有し中国に次ぐ世界第二位の保有量となっているが、近年のドル安で約40兆円の為替差損が発生している。アメリカ国債からは毎年14.5兆円が償還されるが、償還金をアメリカ国債再購入に充てている。
2017年時点の主要な輸出相手国・地域は、1位:アメリカ合衆国(19.3%)、2位:中華人民共和国(19%)、3位:大韓民国(7.6%)、4位:台湾(5.8%)、5位:香港(5%)、6位:タイ王国(4.2%)、7位:シンガポール(3.2%)、8位:ドイツ(2.7%)、9位:オーストラリア(2.2%)、10位:ベトナム(2.1%)であり、アジアへの輸出だけで約55%を占める。輸入相手国・地域は、1位:中華人民共和国(24.4%)、2位:アメリカ合衆国(10.7%)、3位:オーストラリア(5.7%)、4位:大韓民国(4.1%)、5位:サウジアラビア(4%)、6位:台湾(3.7%)、7位:ドイツ(3.4%)、8位:タイ王国(3.3%)、9位:アラブ首長国連邦(3%)、10位:インドネシア(2.9%)であり、アジアだけで約49%を占める。貿易収支は、黒字(2018年に約3兆円)である。主要な輸出品は、金額ベースで自動車(15.1%)、半導体等電子部品(5.1%)、自動車の部品(5%)、鉄鋼(4.2%)、原動機(3.5%)、半導体製造装置(3.3%)、プラスチック(3.2%)、科学光学機器(3.1%)、電気回路等の機器(2.6%)、有機化合物(2.5%)の順である。主な輸入品は、原油及び粗油(9.5%)、LNG(5.2%)、衣類及び同付属品(4.1%)、通信機(4%)、半導体等電子部品(3.7%)、医薬品(3.5%)、石炭(3.4%)、周辺機器を含む電算機器(2.6%)、非鉄金属(2.3%)、科学光学機器(2.2%)である。
日本の産業は、発展の過程で間接金融による資金調達を広く用いたため、銀行が経済に与える影響が大きい。銀行は、融資で土地資産を担保に取ることが多かったため、土地が経済に与える影響も大きい。しかし、バブル景気の崩壊後は、直接金融や市場型間接金融への転換が進められている。金融機関では、バブル時期の焦げ付き、いわゆる不良債権問題が長引き、1990年代初頭に金融危機を引き起こした。しかし、政府主導で大合併が行われて公的資金を注入しての強引な解決が図られ、その後は、超低金利政策の下、高収益を上げるようになった。日本銀行は、2006年にゼロ金利を解除したが、未だ金利の水準が低く推移し、個人消費の伸びも見られないなど、経済回復が明確でなく、2007年現在、それ以上の金利引き上げに至っていない。
また、継続的な経常黒字により、世界最大の債権国であり、世界経済からの配当や利子の受け取りが次第に増大している。2017年末時点で、日本の対外資産残高は1012兆4310億円、対外負債残高は683兆9840億円で、差し引き対外純資産残高は27年連続世界最大の328兆4470億円である。
日本としては世界最大の黒字国であるが、日本政府は歳入の47.9%が公債で賄われている状況である(平成23年度一般会計予算)。しかしながら、日本国債のほとんどは国内保有であり、日本国内の資産となっている。
古くから北太平洋および北東アジアの交通の要所として海運や航空において重要な位置を占め、世界的に有数の規模の海運会社や航空会社が存在し、各国を結ぶ。また、アジアにおいて最も早く鉄道を導入した国の一つであり、世界初の高速鉄道である新幹線を導入し、私鉄による鉄道網が全国を網羅している。また、高度経済成長以降、モータリゼーションが進み、道路網・高速自動車専用道路網が発達している。しかし2016年では高度経済成長時代に作られたインフラが老朽化するなど問題も起きている。
戦後に東海道本線の輸送がひっ迫した事が東海道新幹線計画の契機となった。
なお、新幹線は秒単位という世界に類を見ない正確さで運行されている。2016年度は年間13万本が運行して、1列車あたりの平均遅延時間は24秒だった。これは、地震や豪雨、大雪などの自然災害による遅延も含めたもので、平常時は秒単位での定時運行が実現されている。在来線と規格が異なるので全国を網羅はしていないが、北海道・北陸・九州の各地で整備が続く。
“日本の新幹線”
羽田空港は2014年、スカイトラックスが実施した「Global Airport Ranking 2014」において日本の空港として初めて世界最高水準の5つ星を獲得した
2018年3月、スカイトラックスは、世界の空港ランキングでは2017年の第2位から順位を落として第3位として選出したものの、世界で最も清潔な空港では第1位として選出した。
鹿児島・沖縄両県の南西諸島をはじめとした離島に整備された空港は輸送量は小さいが、住民の日常生活を支えている。一方、騒音問題や用地確保などによって都市部における空港インフラは整備途上で慢性的な容量不足であり、航空網充実の足かせとなっている。また、一部の地方空港では採算面の課題も浮上している。
日本は東アジアに位置しており、現在の中国や朝鮮半島など近隣の地域から様々な文化的要素を取り入れてきた。一方で海洋によって大陸から隔てられた島国であることや、遣唐使の停止や鎖国なども伴い、独自の文化も発展させてきた。現在では情報通信の発達に伴い、世界規模で様々な文化の影響を受けつつ、日本独自の文化の発信も行われている。
日本では伝統的な被服は和服であったが、現在では洋服が広く普及している。三宅一生や川久保玲など世界的に展開するファッションデザイナーも居る。
日本の国土は大部分が温帯に属し、南北に長く、海洋に囲まれているため、四季がはっきりしており降水量も多い。そのため、魚介類や海藻、野菜や山菜、果物など様々な食品が自然の恵みとして得られる。また、稲作の導入、仏教や鉄砲の伝来、鎖国や文明開化、第二次世界大戦などを経て、様々な異なる食文化の影響を取捨選択した独自の食文化が成り立っている。日本の伝統的な食文化である和食はユネスコの無形文化遺産に登録された。現在の日本では貿易や情報通信などの発展に伴い、伝統的な日本の食文化だけでなく、世界中の食品や料理、風習などを伴う食文化に接することができる。
四季があり降水量が多いため、米を含む穀物、野菜や山菜などの種類が豊富である。また暖流と寒流が交わる海洋に囲まれているため、魚介類や海藻などの種類も豊富である。これらの食品は、多く採れかつ味の良くなる旬を大事にする形で利用されてきた。一方で、ウシやニワトリなどの肉食が禁止されたことがあることなどの影響から、食肉や乳製品はあまり普及しなかった。現在では食肉や乳製品も一般的に利用されており、また小麦や大豆など輸入が多い食品もある。食料自給率は高くない。
一汁三菜など飯を中心としたメニュー、献立が多い。また様々な食品と豊富な水を利用した「だし」によるうま味も特徴として挙げられる。
伝統的な食事は、比較的に栄養バランスに優れ低カロリーという特徴がある。一方で凶作や戦争、貧困などによる栄養失調や生活習慣病もある。
食事の際の挨拶や、食器を手に持つことが許され、音をたてて食事をすることに寛容など、独自の作法がある。
食品の貯蔵や調理に用いた縄文土器や、食器に用いる漆器や陶磁器、調理に用いる包丁など、様々な道具が用いられてきた。
日本は山林が多く、木造建築が伝統的に用いられてきた。現在では都市を中心として高層建築物も立ち並ぶ。ゼネコンなど世界的に展開する企業もある。
日本の社会的支出は高齢者に集中している。少子高齢化による医療費負担の増大に伴い、財政の逼迫した健康保険組合が増え、組合管掌健保や協会けんぽの保険料率や国庫負担率の引き上げが議論される 。現在、毎年のように国民年金保険料や厚生年金の社会保険負担率が引き上げられて現役世代への負担が増し、公的年金の世代間格差が問題になっている。
社会保険方式によるユニバーサルヘルスケアが達成されているが、GDP増加を上回るペースで医療費が増加している。2009年のOECD対日審査では医療制度改革に一節が割かれ、老人医療費の上昇に対して若者世代の負担を抑えながら対応するかが鍵であるとOECDは報告している。
OECD諸国の中で最も少子高齢化が進んでいる。高齢社会白書では「我が国は世界のどの国も経験したことのない高齢社会を迎えている」と述べられている。約50年後の2050年には65歳以上の高齢者が人口の約4割を占め、高齢者1人を1.3人で支える超高齢社会となる。
自殺は主要な死因の一つである。自殺率はOECD諸国において韓国、ハンガリーに次いで第3位であり、OECD平均と比べ未だ高い数値であるため明らかに要注意であるとOECDは勧告している。世界保健機関 (WHO) の2010年統計によると、WHOに自殺統計を報告する104か国の中における自殺率の順位は高い方から第6位である(国の自殺率順リスト)。
自殺の原因については、宗教・死生観など日本人の様々な精神性が仮説として提示されるが、依然として解明されていない。政府は、先進国でも極めて高いこの自殺率を重要な問題と認識し、2006年に自殺対策基本法を制定したが、基本的な枠組みを規定するにとどまった。OECDは精神保健政策の緊急の高度を要する課題を指摘している。
根拠法として教育基本法が制定されており、文部科学省が所管している。1990年時点の識字率は、99.8%(男99.9%、女99.7%)。
日本国籍を有する6歳から15歳までの9年間(学齢)を対象とする義務教育が実施される。一般には、小学校6年間、中学校3年間。特別支援学校については、小学部6年間、中学部3年間。中等教育学校については、前期課程3年間。なお、中学校を卒業した内の約96%が高等学校に進学する。
国民の25-64歳人口について、その53%がISCED-3レベル以上の中等教育を修了している。なお第3期の教育の修了者については、タイプBが20%、タイプAが26%であった。
世界的にも多くの分野で高水準のテクノロジーを有する。国際特許の出願数は、アメリカ合衆国に次ぐ世界第2位、特許収入もアメリカに次ぐ世界第2位の黒字国である。
スポーツが盛んであり、野球は大衆の娯楽となっており、日本のみならず大リーグで活躍する日本人選手もいる。また、相撲は古来から続く日本の国技である。
近年はサッカーも盛り上がりを見せており、1993年にJリーグが開始された他、2018年のワールドカップではベスト16入りを果たした。
日本でのオリンピック開催回数(4回、2020年の東京オリンピックを含む)はアメリカ(8回)・フランス(5回)に次いで世界で3番目に多い。1964年の東京オリンピックは日本初のオリンピックであると同時にアジア初のオリンピック、さらには有色人種国家初のオリンピック開催となった。
1964年の東京オリンピック・1972年の札幌冬季オリンピック・1998年の長野冬季オリンピックが開催されており、2020年にはオリンピックが再び開催される予定である。
日本は1950年以降急速な少子化、高齢化が進行している。そして、1970年に高齢化社会(65歳以上の人口割合が7%から14%)に、1994年に高齢社会(65歳以上の人口割合が14%から21%)になり、2007年には超高齢社会(65歳以上の人口割合が21%以上)となった。2015年の国勢調査では前回と比べ約93万3千人減少しており統計開始以来初めて人口が減少した。
日本の各地方の人口は次の通りである。2015年10月1日に実施された国勢調査の速報値による。
北海道、(北方四島)
青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県
茨城県、栃木県、群馬県
埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県
新潟県、富山県、石川県、福井県
山梨県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県、三重県
滋賀県、京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県
鳥取県、島根県、岡山県、広島県、山口県
徳島県、香川県、愛媛県、高知県
福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、大分県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県
100万人規模以上の人口を有する大都市が各地方に点在している。国民の多くは、これらの大都市、または、その周辺部で生活する。国土全体を対象とした人口密度調査においても領域国家として世界有数の高さを示すが、沿岸の平野部に都市部が集中していて、国土の1割に人口の9割が住む。また、日本海側に比べて太平洋側に人口が集中している。中でも特に東京を中心とした南関東の人口は、日本の人口の約4分の1を超え、世界最大の都市圏を構成する。そのため、都心部では土地の値段が高騰化し、ドーナツ化現象などの問題も起きている。しかし近年では、特に首都圏では、東京都心部の土地の値段が下落し都心回帰の現象も見られる。
2015年10月1日に行われた国勢調査の速報数を集計した結果、人口総数が500万人を超過する上位9都道府県は次の通りである。
少子化のため、2040年には全国市区町村のうち約半数(896自治体)の存続が難しくなり、かつ523の自治体は人口1万人以下になるとの推定がなされている(限界集落)。
ヤマト王権の側から書かれた古代史には、九州地方に熊襲、東日本に蝦夷など、文化を異にする部族がいたという記録がある。彼らは、徐々に大和朝廷に臣従しながら大和民族と同化していったとされる。アイヌ語と日本語との比較言語学的な関連が見出せないことから、アイヌと大和民族との関連について様々な議論があるが、遺伝学や考古学的証拠から大和民族との関係を重視する学説が有力になり、大和民族に同化しきらなかった蝦夷が、オホーツク文化などの影響を受けつつ、徐々に中世頃から分化したものと考えられている。
日本国籍を有さない外国人が200万人程在住し、現在、在住人口の約1.5%が外国人登録者である。中国籍、韓国籍、朝鮮籍、台湾籍、ブラジル国籍、フィリピン国籍の順に多く、韓国・朝鮮籍を除けば増加傾向にある。近年の外国籍の増加の背景には、1990年の入管法改正でブラジルなどに移民した日本人の子孫の日本での就労が自由化されたことが大きく、更に結婚の国際化などもある。
全人口の98.5%が日本民族とされるが、日本政府は日本国籍を有する者を日本民族としてみなしているため、アメリカ合衆国やイギリス、カナダなど移民の多い国で一般的に調査される、民族・人種調査は国勢調査では行われていない。そのため、アイヌ人などの少数民族、渡来人や亡命ロシア人の子孫、外国からの帰化人や国際結婚の配偶者、さらにはその子どもなども98.5%の日本民族という項目に含まれている。これらの政策が単一民族国家的な価値観に基づいた同化主義であるという見方もある。
韓国籍、朝鮮籍、および台湾籍については、戦前の旧・日本領の出身者、および両親のうちいずれか(あるいは両方)がその出身である者の子孫が多く、中国残留孤児や家族の永住帰国もいる。更に、韓国籍、朝鮮籍に関しては、戦後になってから朝鮮戦争や貧困・圧政から逃れて渡来してきた難民 が一部含まれている。
1895年に台湾を、1910年に朝鮮半島を併合後、第二次世界大戦敗戦まで日本の一部として、台湾人、朝鮮人にも日本国籍を与えていたため、これらの地域にルーツを持つ人々が多く、順次、経済的に豊かであった本土に移住してきた者も少なくない。明治の日本は西欧人の居住や移動、営業に関しては領事裁判権を認める代わりとして居留地制による制限を設けていたが、朝鮮人や中国人については制限がなく、日本国内の各地での雑居が認められていた。1899年に西欧各国との領事裁判権の撤廃が成り、居留地制度は一律に廃止され(内地雑居)たが、中国(清・中華民国:支那)人を含む外国人労働者には居住・就労の制限が設けられた(勅令第352号)。これはおもに華人(支那人)を規制する目的のもので朝鮮人には実質的に適用されなかったとされる。台湾人もまた併合後は帝国臣民であり居住に制限はなかったが、台湾・朝鮮とも戸籍(台湾戸籍、朝鮮戸籍)の離脱は認められず、あくまで内地での寄留であった。台湾人の移住は戦前は少なく、日本在住の台湾人は総じて学歴があり、華人(支那人)や朝鮮人とはことなりオランダや明遺臣、清朝の植民支配の歴史的経験があり、民族的な屈託がなく日本語(や外国語)に通暁しよく働くので厚遇された。華人(支那人)は三刀(料理人・理髪師・仕立屋)が、朝鮮人は労働者が中心で、移住規模も多かった。
朝鮮人労働者の日本内地への移動は日韓併合の1910年に2600人であった移動者が1923年には13万人あまりと増加傾向にあり、1919年4月の「朝鮮人の旅行取締に関する件」(警務総覧部第3号)により朝鮮人の日本渡航への直接規制(旅行証明書制度)に転換し、移動制限を口実に実質的な居住規制に方針が転換された。朝鮮半島領域では実施されていなかった参政権も普通選挙法(1925年)施行後の内地では認められており、希望を持ち移動し定住した者も多かったが生活は決して恵まれたものではなかった。大戦中には軍人・軍属、あるいは就業目的として渡海した。また徴用労働者として800名以上が渡海した。
終戦の後、彼らの多くが祖国へ引き上げたが、各人の判断や事情によって日本に留まった者もいる。また、戦後相当の数の朝鮮人が祖国の混乱(朝鮮戦争)(国連による難民認定がされている)や韓国軍による虐殺(済州島四・三事件、保導連盟事件など)を逃れて日本に渡った。その後、サンフランシスコ平和条約締結によって彼らは日本国籍を喪失し朝鮮籍となったが、そのまま特別永住者として日本に在住し続けた。現在では、日本生まれが多数派であり、帰化して日本国籍を取得する者も多く、在日コリアンは減少を続けている。近年では朝鮮籍から韓国籍に登録を変更する者が多数となっている。
アイデンティティと国籍の問題は明治の開国以来、日本が否応なく直面することになった人権問題であり、戦前から華僑・印僑の人々や様々な移住者、戦後ながらくは台湾・中国系日本人コミュニティの間で葛藤を生んできた。1990年代以降、ブラジルなどの日系移民2世3世の出稼ぎ労働や、東南アジア・中国からの「研修労働者」、不法入国(滞在)労働者の人権問題などが発生している。
日本人の起源は、ユーラシア大陸から弥生時代以降に複数回にわたって移住した人々弥生人と、縄文時代以前から定住していた人々縄文人が融合して形成されたものである。移住してきた経路は時代によって異なる。主な経路としては、サハリンなどの北方経路、朝鮮半島を基点とする日本海経路、南西諸島を経由する南シナ海経路である。
最初に主流になったのは、沖縄・南九州・東北地方に多い縄文人である。この時期、日本海経路で小規模ながら交易がおこなわれていたことが出土品から証明されている。その後、稲作文化とともに大陸からやってきた人々が、北九州から中部地方に多い弥生人の基盤となった。日本列島に移住してきた経路や、規模、時期の詳細については、定かでない部分が多く、諸説ある。縄文系と弥生系では身体的特徴に違いがある。縄文系は古モンゴロイドに属し、目が大きい、彫りが深い、骨太で筋肉質、二重まぶた、歯は短い、耳垢が湿っている、体毛が濃い、などの特徴を持つ場合が多い。弥生系は新モンゴロイドに属し、目が細い、彫りが薄い、長身ですらっとした体格、歯が長い、耳垢が乾いている、などの特徴を持つ場合が多い。
島国という地理的な特性から、小規模な移住が何度も繰り返された結果として、複数の民族が互いに混血し、文化を取り込みながら発展したと推測される。それらの中から最大勢力として発展してきたのが自称として「和人」、あるいは近代的な民族意識の下で「大和民族」あるいは「日本民族」である。
なお、アイヌ民族は、和人との交流の中で、中世から近世にかけて成立したとされるが、成立の詳細な過程については不明な点が多い(詳細はアイヌを参照)。
古墳時代、北東北地方を除く本州・四国・北九州の人々は、大和盆地を本拠地とするヤマト王権のもとに連合し、倭人(和人)としての文化を形成する。飛鳥時代の律令国家の確立に伴い、和人の文化的一体性が確立された。その後、朝廷の支配下に入るのが遅れた北東北(蝦夷)・南九州(熊襲)の人々を同化しながら文化圏の拡大を続け、平安時代までに本州・四国・九州の全域が和人の生活範囲となった。江戸時代には、薩摩藩による琉球への侵攻、松前藩のアイヌ支配の確立により、北海道・南西諸島を含む日本列島の全域が和人の勢力圏に置かれた。
「蝦夷地」と総称された現在の北海道・千島列島・樺太南部に居住したアイヌや、琉球王国を樹立した南西諸島の人々は、弥生時代以降、本土と交流を持ち続けつつも、江戸時代まで政治的には本土の政権の支配下には入らず異なる歴史を歩んだ経緯がある。現在、アイヌ語を第一母語とする人々は極めて少ないが、アイヌ文化振興法が制定されてアイヌ文化の保存・再興が図られている。なお、アイヌと共に南樺太にいたウィルタやニヴフの多くは、ソビエトの侵攻・占領の後、北海道や本州へ移住した。
また、小笠原諸島には、19世紀初頭にハワイからの移民団が史上初めて定住し、欧米系島民(ヨーロッパ系アメリカ人やハワイ人)による小規模なコロニーが形成されたが、明治維新の後に日本による領有が確定すると順次、彼らも日本国籍を取得して日本人社会に溶け込んでいった。
日本には公用語を明示する法令が存在しない が、日本語がほぼ全ての国民の母語であり、慣習に基づく事実上の公用語である。全土で均質化された日本語による義務教育が行われている。識字率は極めて高い。日本に定住する外国人も多くは日本語を理解する。国会では、アイヌ語などが使用された例もある が、憲法や法律は、日本語で記したものが正文である。世界中の多くの言語が、他の言語からの派生を繰り返して生み出されてきたが、日本語に関しては派生元の言語が明らかになっていない孤立した言語とされるか、琉球語を別言語とみなし日本語とともに日本語族を成すとされる。
近代以前の日本語は、文語と口語との乖離が大きかった。口語では京都方言(江戸時代中期以前)および江戸方言(江戸時代後期以降)が中央語と意識され広く通用したが、地域や階層による方言差が大きかった。明治維新による近代的な国民国家の創設に伴って言文一致運動が起こり、口語に近い文章語の確立が朝野の双方から推し進められた。東京方言を基盤に整えられた新しい文語や口語(標準語・共通語)は、教育・報道・行政・軍隊などを通じて国民に広く浸透し、国民的一体感の形成に寄与した。共通語の浸透に伴い各地の方言は衰退・変容を余儀なくされた。近年、地域文化・アイデンティティーとして見直す機運が高まり、教育現場においても共存が図られるようになった。
日本は漢字文化圏に属し、日本語の表記には漢字とそれから派生した仮名を主に使用する。第二次世界大戦後、GHQの指導などもあって、政府は漢字の全廃を決定し、全廃まで当面使用できる漢字をまとめた「当用漢字表」を告示して漢字の使用を制限した。しかしその後、当用漢字よりも緩やかな「目安」として「常用漢字表」が制定され、漢字全廃の方針は撤回された。そうしたなかで、一部の漢字は正字体(旧字体)から新字体に簡略化された。固有名詞は別扱いであることから、人名・地名などでは旧字体や異体字の使用が続いており、異体字の扱いは現在もしばしば問題となる。仮名の正書法に関しても、終戦後、従来の歴史的仮名遣から現代仮名遣いに変更された。近年、コンピュータの普及や文字コードの拡張などに伴い、漢字の使用に関する制限は緩められる傾向にある。
日本語以外には、アイヌが用いるアイヌ語や、樺太から移住した少数住民が用いたニヴフ語・ウィルタ語がある。現在ではニヴフ語・ウィルタ語の母語話者によるコミュニティは消滅し、アイヌ語も母語話者が10人以下に限られる危機に瀕する言語であるが、アイヌ語再興の取り組みも活発である。琉球列島の伝統的な言葉は本土方言と違いが大きく、本土方言とともに日本語の二大方言の一つである琉球方言か、日本語とは系統の同じ姉妹語(「琉球語」)か、その位置づけには議論がある。琉球方言(「琉球語」)内部でも地域差が大きく、複数の言語の集合として「琉球語派」や「琉球諸語」と位置づける場合がある。
その他の言語は、日本語に単語として取り入れられた外来語を除き、日本人同士の意思疎通にはほとんど用いられず、高等教育の教授言語としても常用されない。日本人にとって最も身近な外国語は国際語のひとつである英語であり、実務上での便益や諸外国人への配慮から、国際取引や学術研究の場で使用が奨励されることがある。義務教育の中学校の必修科目である外国語科では英語を扱うことが圧倒的に多く、それ以降の高等教育機関でも多くの日本人が英語を学ぶ。とはいえ、多くの日本人にとって、日本語から遠い系統の言語であるため習得が難しく、また日常生活や職務上での必要性が低いことなどから、帰国子女など特殊な例を除き、英語に堪能な者は少ない。
大学で学ぶ第二外国語としては、主にドイツ語・フランス語が選択されてきたが、近年は中国の経済発展に伴って中国語の選択が増えた。朝鮮語(韓国語)は日本人にとって比較的習得が容易な言語であるが、韓国朝鮮系の住民を除いて学習者は多くなかった。近年、韓国の大衆文化が盛んに輸入されていることに伴い、学習者が増加傾向にある。ロシア語の学習者は多くないが、冷戦崩壊後、極東ロシアとの貿易が活発化しているため、北海道や日本海側の都市で外国語表記に取り入れられるなどしている。安全保障上の理由から学ばれている言語は、米軍との意思疎通を図るための英語と、仮想敵のロシア語・中国語・朝鮮語が主である(予備自衛官補の語学技能枠で一般公募もされている)。
外国籍の住民および帰化外国人、日本に定住する外国人が用いる主な言語には、在日韓国・朝鮮人の一部が用いる朝鮮語(在日朝鮮語)、在日中国人・在日台湾人を中心に約60万人が用いる中国語・台湾語、日系ブラジル人を中心に約30万人が用いるポルトガル語、フィリピン人・欧米人を中心に約25万人が用いる英語などがある。
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